私の父母は人とのつながりを縁という言葉で表していた。どこの誰かわからない初対面の人であっても「うちん玄関に入って来た以上は縁があるとたい」といって、刑務所帰りの...
私の父母は人とのつながりを縁という言葉で表していた。どこの誰かわからない初対面の人であっても「うちん玄関に入って来た以上は縁があるとたい」といって、刑務所帰りの...
21、2歳の頃、ある文学誌の賞の最終審査に残ったことがあった。若い私は自分の実力もかえりみず、ひょっとしたら賞をもらえるかもしれないと期待に胸をふくらませた。し...
私は若い頃より、うんと年上の友人が多かったことは幸いであったと思う。生きる上で必要な様々なことを、前を歩いている友人たちの姿から学んだ。また、結婚して以来、ずっ...
最近、子どもの貧困をテーマにした本を読んでいたら、小学5年生にして、初めて、靴下を履いた少女の記録が載っていた。実母はいたが、いわゆるネグレクトで、可愛がられた...
私が8歳の時、母の従妹の子が10歳で亡くなった。その子はミサの侍者もするような、すぐれた男の子であった。おばさんの嘆きは大きく、毎日、泣き明かして暮らしていた。...
何事もない時には、退屈だの、少しは刺激が欲しいなどと勝手なことを思ったりする。しかし、自然災害、事故や事件、大病などに見舞われると、何事もなかった平凡な繰り返し...
イタリアの修道院の院長が臨終の時、その顔が急に天使のように輝いて「わたしのお母さん!わたしのお母さん!」と声高らかに言った。そばで祈りをささげていた聴罪司祭が「...
ふるさとの母は、自分よりうんと年下の人が亡くなったことを知ると、「あらよね、つんだひか(可哀相)、わたしが代わってやりたかったよ」というのが常だった。父は、「チ...
私は母に似ておしゃべりである。母は世間話の名人といわれるほど、しゃべることが得意な人であった。しかし、おしゃべりではあったが、人の悪口などは一切いわなかった。人...
私がふるさと五島列島から大阪へ旅立ったのは18歳の春であった。今からもう50年余りも前のことなのに、私はその頃のことをよく覚えている。私が旅立つ3日ほど前に、血...