
イエスは、洗礼者ヨハネが死んだことを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。

今日の福音朗読箇所で、イエスはご自分の後を追って集まってくる人々に強く心を痛められます。イエスが「大勢の群衆を見て深く憐れみ」と記されている箇所の「憐れむ」と翻訳されている言葉には、「はらわたが千切れるような痛みを感じる」という意味がこめられているそうです。
マタイ福音書にはどうしてよいかわからず困り果ててイエスを頼ってくる群衆に、イエスが分け隔てなく助けの手を差し伸べられる姿が繰り返し描かれます。イエスが心を痛められるのは、群衆の様子が「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」(マタイ9・36)からです。この群衆のなかの多くの人は、病気や体の障害や生活の貧しさのため律法に従った「正しい生活」をおくるのが難しい人たちなのでしょう。この人たちが、「打ちひしがれている」のは自分たちが「救い」にあずかるのは難しい、と絶望しているからです。自分たちの痛みに共感してイエスが手を差し伸べて下さっていると分かった瞬間、人びとは大いに勇気づけられたはずです。
群衆が、イエスが山から下りてこられたり、湖を渡られたり、今日の福音書のように一人になっておられたところへ集まってくるのは、イエスの姿を見ると自分たちが救いから見放された存在ではないと実感できるからです。イエスの言葉にわたしたちも勇気づけられるよう、祈りましょう。
参考:(第一朗読:イザヤ55・1-3)・(第二朗読:ローマ8・35、37-39)