2023年09月30日の聖書の言葉

10月1日 年間第26主日 マタイ21・28-32

 そのとき、イエスは祭司長や民の長老たちに言われた。「あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」

み言葉の分かち合い

み言葉の分かち合い

 「二人の息子」のたとえ
 マタイ福音書21章から、イエスのエルサレム神殿での活動が始まります。本日のたとえ話は、マタイ福音書だけが伝えているものです。イエスはエルサレムの神殿から商人を追い出しました。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか」と詰め寄る祭司長や民の長老たちに向けて、この「二人の息子のたとえ」を話されたのです。

 ぶどう園は時機に適った手入れが欠かせないそうです。今日はどうしてもぶどう園での労働が必要だったのでしょう。父親は二人の息子にぶどう園へ行って働くよう依頼したのです。
 たとえ話の配役は次の通りです。
・「父親」=「神様」
・「ぶどう園で働く人」=「イスラエルの民」
・「兄」=「徴税人や娼婦たち」
・「弟」=「祭司長や民の長老たち」

 先週(年間第25主日)の福音「ぶどう園の労働者」のたとえ話(マタイ20・1-16)を思い返してください。あと1時間で日が暮れるという時刻になって、ようやく働くことができた労働者に対して「最後の者にも、同じように支払ってやりたいのだ」と語る主人の慈悲深い眼差しが目に浮かびます。父親は二人の息子にぶどう園での労働を強いることが目的なのではありません。父親と共に生きる喜びを味わおうと招いているのです。
 「承知しました」と答えて出かけなかった弟にも、後で考え直すチャンスはあったはずです。父親はそれを望んでいたことでしょう。しかし自分は正しく、回心の必要がないと確信していた弟には、残念ながら父親の招きの声が届くことはありませんでした。

 自分は悔い改める必要がないと言える人はひとりもいないのです。「悔い改め」「考え直し」「心を変える」ことは、兄にも弟にも、そして徴税人や娼婦にも、また祭司長、民の長老たちにも、同じように求められていることなのです。そしてこのことは、現代を生きる私たちにも同じように求められているのです。
 ぶどう園に行って働くとは、父なる神の許に立ち返って、神の御心に従って生きるということです。その実現は、まず「考え直す」こと、「悔い改める」ことから始まるのです。

 では「考え直す」とはどういうことをすればよいのでしょうか。

~~考え直すことは簡単なことのように思えますが、きわめて難しいことです。自分の習慣やくせを直すことは容易なことではなく、一度決めたことや身についてしまったことをやり直すのには、とても勇気がいります。 しかし、これまでの自分を縛りつけていたメンツやこだわりを捨てて解放される時、わたしたちの前に新しい世界が開けてくるのです。固執していたものから自由になる時、わたしたちは解放され、新しくなるのです。~~  『イエスの譬話』船本弘毅、河出書房新社

*キーワード:後で考え直す
 原文のギリシア語「メタメロマイ」は、2つの意味を持つ言葉です。
 ①悔やむ・後悔する、②考え(関心)を変える
 父親(=神)の呼びかけを深く受け止めて、自分を変えることができるかどうかが問われているのです。洗者ヨハネが説いた回心の道は、何よりもまず、自分の罪の深さを認めて神に立ち返ることでした。自分たちは正しい行いをしているという自己満足の世界にいる祭司長たちの心には、ヨハネの回心の勧めが響くことはありませんでした。
 ところが、神の望みを果たすことができないでいることを自覚し、痛みを感じていた徴税人や娼婦たちにとって、ヨハネのメッセージは希望を与え、心を動かされることになったのです。

参考:(第一朗読:エゼキエル18・25-28)・(第二朗読:フィリピ2・1-11)


2023年09月23日の聖書の言葉

9月24日 年間第25主日 マタイ20・1-16

 そのとき、イエスは弟子たちにこのたとえを語られた。「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

み言葉の分かち合い

み言葉の分かち合い

 「賃金はその日のうちに、日没前に支払わねばならない」(申命記24・15)と定められています。
 「夜明けから働いた者から順に、約束通り1デナリオンずつ支払って立ち去らせる」ことを行っていれば、何のトラブルもなく終わったことでしょう。しかし夕方になって、ぶどう園の主人は「『最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に』賃金を払ってやりなさい」と、支払いの順番を逆にしたために、もめ事が生じて、このたとえ話の教訓が生まれました。最後に来た者にも、最初から働いてきた者にも、同じ1デナリオンが支払われたことを、皆が知ることになったからです。

 三浦綾子さんは「新約聖書入門」(光文社知恵の森文庫)の中で、次のように述べています。
 「あと1時間でその日が暮れるという時に、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい』と言われた時の彼らの表情を私は想像する。それは、朝9時に雇われた人の喜びとは違って、恐らく泣かんばかりの深い感動があったに違いない。」「人間は、自分が人からもらうのは喜ぶにもかかわらず、人がもらうのを見ると素直に喜べない。喜べないだけならまだしも、与えた主人に文句をつけるのだ。」「天国とは、このような主人がいる所なのだ。」「ただひたすら、神を待っている者が祝福される場所なのである。」「先に雇われた者のように、古参面をしたり、お前たちと自分たちとは違うというような顔をする者は、天国では先に立つことはできないのである。」

 不平を言った労働者に対する主人の言葉に注目したいと思います。まず「友よ」と呼び掛けたことです。労使が上下関係ではなく対等な関係であることを、主人の発言を通してイエスは語ってくださいました。そして「あなたと同じように支払ってやりたいのだ」と、ストレートに気持ちをぶつけたことです。ぶどう園で働いた時間にだけ目を向けるのではなく、だれも雇ってくれずに待ち続けた労働者の気持ち、主人に呼ばれた時の喜びに目を向けたからこその主人の言葉なのです。

 朝早くから働いた者が、わずかしか働かなかった者と同賃金ということを知れば、不平を言うであろうことは予想されたことでしょう。敢えてその状況を設けることによって、イエスが伝えようとされたことは何でしょう。
 それは、父なる神は、この世の主人とは異なる考え方によって報いてくださるということです。人間社会では、労働時間、専門性、責任の軽重等によって、その代価が決まることが原則です。しかし、神の目から見ると違うのです。ちょうど親が我が子に対して、どの子も等しくかわいい、皆一番(「出来の良い子は親の自慢ですが、出来の良くない子の方が、心配な分、かわいくてしょうがないよ」と言う友人がいましたが・・)と思う気持ちと相通じるものがあるのだと思います。

「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり
わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。
天が地を高く超えているように
わたしの道は、あなたたちの道を
わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている」
 (イザヤ書55章8、9節)

*キーワード:だれも雇ってくれないのです
 「ぶどう園の労働者のたとえ」はマタイ福音書にだけ記されたものです。
 このたとえ話で主人と労働者が出会う場所は、日本で日雇労働者が多く暮らす街に設けられた「寄せ場」と似ています。求人業者が賃金その他の条件を掲示し、契約が成立すると労働者は業者が用意したマイクロバスに乗って仕事現場に行くのです。若くて力仕事ができそうな労働者から順に声がかかります。契約が成立しなければ、その日の仕事はなく、収入もないのです。
 また、この一日中立ち尽くす労働者のたとえ話は、イエスご自身の体験に基づくものではないかと考える人がいます。公生活に入られる前の約30年間、イエスはどのような日常を送っておられたのでしょうか。その体験がイエスの言葉や行動にどのように反映されているのでしょうか。じっくりと考えてみたいと思っています。

参考:(第一朗読:イザヤ55・6-9)・(第二朗読:フィリピ1・20c-24、27a)


2023年09月16日の聖書の言葉

9月17日 年間第24主日 マタイ18・21-35

 そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」

み言葉の分かち合い

み言葉の分かち合い

 「7の70倍までも赦しなさい」。「何回赦すべきですか?」の質問に対するイエスの答えは、「回数の問題ではない」というものでした。さらに、赦す行為は、我慢することではなく深い憐れみが原動力となっていることを教えてくださったのです。

 たとえ話の中で、王が大切にしたことは「家来との繋がり」でした。王は貸した金よりも、人間関係の回復を優先させました。一方、家来が大切にしたことは、仲間との関係ではなく貸した金のほうでした。家来が赦していただいた「1万タラントン」は約6000億円という巨額です。つまり返済は不可能な金額なのです。一方、家来が返済を強要した百デナリオンは、その60万分の1の約100万円なのです。どこまでも赦す「王の寛大さ」と仲間(仲間という語が四回も登場します!)をゆるさない「家来の心の狭さ」が対比されています。

 私たちは背負いきれないほど多くの「思い、ことば、行い、怠りによる罪」を赦されて生きることができています。しかしこの家来のように、他人の過ちには厳しく、ゆるせないことが多いのではないでしょうか。
 神は忍耐して赦してくださるのではなく、愛ゆえに、深い憐れみの心をもって、損することを厭わずに、贖罪のために御子イエス・キリストを十字架につけてでも、関係の修復を図ってくださる方なのです。

 神が下さっている大きな恵みによって、私たちが人をゆるす寛大な心を持つことができますように。
 主の祈りの中で「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします」と唱えるたびに、主君の言葉「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」を思い出して、人間関係の回復を優先させてゆるす、寛大な心を発揮することができるよう祈りたいと思います。

*キーワード:憐れに思って
 原文のギリシア語で「エレーオ」という語、「キリエ・エレイソン」=「キリストいつくしみを※」のエレーオですが、「憐れむ」というニュアンスではない。苦しみ、痛みを分かる、分かって行動するということです。
 『聖書を発見する』本田哲郎(岩波書店)より
 ※最近まで「あわれみたまえ」と唱えていました。

参考:(第一朗読:シラ27・30~28・7)・(第二朗読:ローマ14・7-9)


2023年09月09日の聖書の言葉

9月10日 年間第23主日 マタイ18・15-20

 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。

 はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

み言葉の分かち合い

み言葉の分かち合い

 本日の福音は「九十九匹を残して迷い出た一匹の羊を探しに行く」たとえ話をされた後、引き続いて語られた御言葉です。キリスト者の団体としての教会における人と人の交わりについて話されました。人々の集いから誰か一人でも迷い出たとすれば、神はその一人のために心を痛められるのです。離れてしまった兄弟に対して、どのように働きかければよいのかをイエスは教えてくださいました。

 「行って」と書かれていることに注目したいと思います。相手からの謝罪を待つのではなく、あなたが行動しなさいと命じられているのです。ハードルの高いご命令です。しかし、「兄弟を得る」ためであり、まず「二人きり」で、続いて「人を増やして」、「最後は教会に申し出る」と、具体的にイエスは話されました。

 「祈り」について、「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」とイエスは約束してくださいました。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」。
 どんなに小さな集いであっても、「心を一つにして」「イエスの名によって」祈り、集まるとき、イエスはその中にいてくださるとは、なんと心強い御言葉でしょう!

*キーワード1:一つにして
 原語のギリシア語「スュムフォーネオ―」は「同じ音を出す、to sound together」という意味で「シンフォニー(交響曲)」の語源となった言葉です。音を出す仕組みも素材も音色も異なる楽器が音程を合わせ、心を合わせて、ハーモニーを奏でること、それが「祈り」であるとイエスは言われたのです。

*キーワード2:どんな願いもかなえてくださる
 私たちが欲しいと切に願うものの中には、後になって、実は要らなかった、むしろなかったことが成長につながった、という経験をお持ちの方もいらっしゃるのではないでしょうか。神は私たちの心の底にある真の願いをご存じです。そしてその願いをかなえてくださるのです。

~~ある作者不詳の詩を紹介します~~
大きなことを成し遂げるために強さを求めたのに、謙遜さを学ぶようにと弱さを授かった。
偉大なことができるようにと健康を求めたのに、より良きことをするようにと病気を賜った。
幸せになろうとして富を求めたのに、賢明であるようにと貧困を授かった。
世の人々の賞賛を得ようと成功を求めたのに、得意にならないようにと失敗を授かった。
人生を楽しむためにあらゆるものを求めたのに、あらゆるものを慈しむために人生を賜った。
求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた。
神の意に添わぬ者であるにもかかわらず、心の中の言い表せない祈りはすべて叶えられた。
私はもっとも豊かに祝福された。

参考:(第一朗読:エゼキエル33・7-9)・(第二朗読:ローマ13・8-10)


2023年09月02日の聖書の言葉

9月3日 年間第22主日 マタイ16・21-27

 そのとき、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。」

み言葉の分かち合い

み言葉の分かち合い

 弟子たちが、イエスから、ご自身の受難と復活の予告を初めて聞く場面です。イエスは、病気の人や貧しい人、罪びととされユダヤ人社会から除外された人々を癒し、苦しむ大勢の人々に希望を与えました。しかし、ファリサイ派や律法学者たちからは煙たがられ、律法を軽んじるものとされ、敵意を持って見られるようになりました。イエスは弟子たちを伴って神の都であるエルサレムに向かいます。神のご計画に従って、イエスを敵視し命を狙う勢力が待ち構えている都へ上っていくのです。

 「長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」。弟子たちは、この御言葉の意味を復活されたイエスに出会うまで理解することができませんでした。イエスは弟子たちが後で思い出すことができるように、受難と復活の予告をなさったのです。
 「ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた」の記述は、困ったことを言うイエスに対して「そんなこと言わないで」とたしなめる、上から目線(先輩から後輩へ?)のペトロの姿勢が見て取れます。
 「サタン、引き下がれ」"Get away from me, Satan!"は「あっちに行け!」という強い口調の言葉です。"Get away, Satan!"は荒れ野での悪魔からの誘惑を退けるときのイエスの言葉と同じです(マタイ4・10)。

 「自分を捨て、自分の十字架を背負ってイエスに従う」ことが、弟子のとるべき態度であるとイエスは教えられました。後に、復活されたイエスに出会った弟子たちは、喜んで十字架を背負って歩む、たくましい弟子たちに変身していったのです。

*キーワード1:邪魔をする者
 原文のギリシア語は「スカンダロン」で「つまずきの石」「わな」を意味する言葉です。「スキャンダル」はこの言葉から生まれました。先週(年間第21主日)の福音書の箇所で「あなたはメシア、生ける神の子です」という素晴らしい信仰告白をしてイエスから祝福されたペトロでしたが、「神のことを思わず、人間のことを思っている」と指摘され、厳しいお叱りの言葉をいただくこととなりました。

*キーワード2:神のこと、人間のこと "come from God""come from human nature"
 "come from " は、「~出身、由来する」という意味です。
 「Human Nature」というマイケル・ジャクソンのヒット曲をご存じでしょうか? 曲名の"human nature"は「人間の性(サガ)」「本能のおもむくまま」という意味です。イエスの受難予告を神が定められた道であることを理解しようとせずに、ペトロ自身のメシア像を優先させたことに対して、イエスは叱責されたのです。

参考:(第一朗読:エレミヤ20・7-9)・(第二朗読:ローマ12・1-2)