2023年01月28日の聖書の言葉

1月29日 年間第4主日 マタイ5:1−12a

 そのとき、イエスは群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。

 「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
 悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
 柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
 義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
 憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
 心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
 平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
 義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」

み言葉の分かち合い

み言葉の分かち合い

 今日の福音箇所は、マタイ福音書の中でも有名な箇所 "真福八端" と呼称される八つの幸いをイエスが語った "山上の説教" です。またマタイ福音でのイエスの宣教活動への最初のメッセージでもあります。その大切な事柄についての話のためでしょうか、初めてのメッセージを山上から話されました。ご自身の使命と神の国との関係を初めて弟子たちに向かって話したのです。現代でいう頂上に立つ人が施政演説をするのに似ています。但し、話の内容は全く異なっていることは確かです。イエスの説教は、神と人とに心を開き、神だけを拠り所として生きる信仰を訴えると同時に、神はそのような人を愛され、その印である恵みを "温もり" のように証しされるのです。その証が "八つの幸い" であり、神の特質を証ししたものなのです。

 "幸い"と言われる八つの証は、一体何を意味しているのでしょうか。この世の価値観ではない神の恵み、その中で人が人として成熟していく有り様を表現した言葉なのです。したがって、個人の自己満足、全て思い通りに事が運んでいくといった自己満足の恵とは全く異なっています。
 それらは時に予期しない厳しい試練を受け、まるでそれらは神の思い・恵みとは考えられないような人間の限界を超えた苦悩を受けて、徹底的に個人のエゴを打ちのめされることもあるのです。その挫折感をあえて味わわせ、古い人を新たな人として成熟させる厳しい道でもあるのです。
 そこから這い上がる人こそ神の望まれる人であり、真にイエスの復活の喜びを味わう事ができると言われます。何故ならイエス・キリストご自身が、苦悩と死を通して体験された"道"だったからでしょう。その中で真の神の力を味わうため、自ら身を呈して体験させられることこそ大切であるというのです。これが今日の福音 "真福八端" の幸福への道、主が私たちに示される幸せへの確かな道であると教えているのです。

 この意味を初めから知っていれば、こんな厳しすぎる道を・・・と考え込んでしまいます。38年前、修練院で微笑みながら語ってくれた当時の修練長の姿は、一体何を語っていたのだろうかと己の記憶を思い起こします。
 あなたはどのようにご理解されたのでしょうか。

参考:(第一朗読:ゼファニヤ2・3、3・12-13)・(第二朗読:一コリント1・26-31)


2023年01月21日の聖書の言葉

1月22日 年間第3主日 マタイ4:12-23

 イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
 「ゼブルンの地とナフタリの地、
 湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、
 暗闇に住む民は大きな光を見、
 死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
 そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。

 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。
 イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。

み言葉の分かち合い

み言葉の分かち合い

 今日の福音も不思議な箇所があります。まず冒頭でイエスは、"ヨハネが捕らえられたことを知り、ガリラヤに退かれた"ことです。なぜご自身の故郷であるナザレを離れカファルナウムに移住されたのか。今流行りの"移住?"、環境を変えて新たな生活を始めただけなのか。
 イエスの場合、そのような表面的、身体的問題でないことは自明です。まさにこの移住は、イエスの宣教活動の開始を伝えているのです。その証言が次の旧約イザヤ書の引用によって確認されています。さらに洗礼者ヨハネが語った同じ言葉「悔い改めよ。天の国は近づいた」(3:2)をイエスも語り、宣教活動の開始を宣言しました。つまり、福音宣教は、今まさに洗礼者ヨハネからイエスにバトンタッチされたのです。

 そこで冒頭の箇所に戻りますが、なぜイエスはヨハネが捕らえられたことを知りながら、彼を助けに行かないで移住してしまったのか、ということです。理不尽なように思いませんか。ましてや神の子であるならイエスはなんでもお出来になるはずです。なぜ助けなかったのか。
 恐れからではないでしょう、むしろ福音宣教、神の使命を優先したというならば神の使命というのは、人の命よりも大切なのでしょうか。イエスに授けられたのは、神の使命イコール全ての人の救いであるはずです。一人の命も救えない、否、救おうとしない人が全ての人に救いをもたらすことができるのか。この点も非常に不思議な箇所ではないでしょうか。

 ここに、現世御利益宗教とは異なるキリスト教との違いを観ることができます。イエスはヨハネが捕らえられたことによって、自分にも迫害が迫ってくることを避けるためであった。そして避難した場所は、ガリラヤ地方のカファルナウムでした。カファルナウムとは、当時異邦人の地であり、暗闇に住む民の地域でした。そこにイエスが移住したということは、その時からその地域の民は大きな光を見、死の影に光が差し込んだのです。それは旧約の予言の言葉が、イエスのこの出来事によって成就したことになるのです。これを聞き、知った人々、ガリラヤ湖で漁師であったペトロ、アンデレ、そしてヤコブにヨハネも次々と弟子になったのです。

 つまり、イエスは神の愛、全ての人の救いを実現するために、彼の先駆者となった洗礼者ヨハネの使命を引き継ぎ、新たに神からご自身に与えられた使命の実現を行うために、彼からバトンを引き継いだと言えるでしょう。それは洗礼者ヨハネの終焉が、イエス・キリストの最後と同様、受難と死であり、十字架と復活を示唆した言動であったからではないでしょうか。
 あなたはどう思われますか。

参考:(第一朗読:イザヤ8・23b-9・3)・(第二朗読:一コリント1・10-13、17)


2023年01月14日の聖書の言葉

1月15日 年間第2主日 ヨハネ1:29-34

 そのとき、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」そしてヨハネは証しした。「わたしは、〝霊〟が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『〝霊〟が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」

み言葉の分かち合い

み言葉の分かち合い

 今回初めて気付かされたことは、典礼暦A,B,C年とも年間主日の初めに必ず、ヨハネ福音書が読まれていることです。その理由は、ヨハネ福音史家が"イエスの福音宣教"を神学的に、文学的に一番意義深く記述しているからだと言われています。そのことを少し意識しながら今日の福音を祈りました。

 すぐに考えさせられたことは、非常に臨場感豊かに文章が書かれていることです。そして、旧約聖書の言葉を随所に上手く引用しながら、まさに旧約の予言の通りであることを確認させる言葉を記述すると同時に、事実、今も起こっているかのように臨場感あふれる描写をしています。聖書は"霊"によって書かれたからだと聞かされてきましたが、まさにそのことを具現化しているように思います。
 ヨハネ福音書は、異邦人やキリスト教を信じる人々向けに書かれた書ではなく、パレスチナのユダヤ人に向けて書かれた書であるとも言われています。それがヨハネ福音書が、非常に難解である一つの理由かもしれません。もちろん、真偽を疑うつもりはありませんが、自分の中で"なぜ? どうして?"という不思議がいつも湧き出てきます。しかし、時間をかけて読み進めていくとき、何か微かな光のようなものを感じさせられ"なるほど"と納得させられると同時に、神の偉大さに平伏させられるのです。

 今日の福音で洗礼者ヨハネは"自分の方へイエスが来られるのを見て"とあります。その時言った彼の言葉は、誰に向けて語ったのか。すでに彼には幾人かの弟子がいたのか、それとも彼の水の洗礼を受けに来ていた人々に対して話したのか、あるいは自分自身であったのか、定かではありません。しかし、次の35節を読むと「その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた」とあります。つまり、弟子の二人にイエスについて話されたことが解ります。同時に、当時の光景からヨハネに洗礼を受けに来た人にも話していたことが伺えます。
 「わたしはこの方を知らなかった」。"えぇ〜、知らない?"読み手である私たちは、エリザベトとザカリアの子であること、生まれる前、マリアがエリザベトを訪問したことから、洗礼者ヨハネはイエスを知っていると思っていませんか。当時洗礼者ヨハネは、エリザベトの胎の中、見えていたとすれば、それは霊によるものでしょう。洗礼者ヨハネの言うように彼は"知らなかった"のです。しかし"この方がイスラエルに現れるために、わたしは・・・"と言うように、彼は自分自身の使命を知っています。これこそ霊によって知らされた使命の言葉です。その同じ霊が続けて話されます。それは霊に対する違和感を取り除き、霊は神から発出されるもの、その霊はイエスを神の子と証しすると言います。

 あなたはこの記述から神の存在、またその神から発出される霊を信じていますか。

参考:(第一朗読:イザヤ49・3、5-6)・(第二朗読:一コリント1・1-3)


2023年01月07日の聖書の言葉

1月8日 主の公現 マタイ2:1−12

 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
 『ユダの地、ベツレヘムよ、
 お前はユダの指導者たちの中で
 決していちばん小さいものではない。
 お前から指導者が現れ、
 わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」

 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムヘ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

み言葉の分かち合い

み言葉の分かち合い

 公現とは、どういう意味が込められているのでしょうか。ただ神の子イエス・キリストが、民の前でお披露目のために出現されたことだけなのでしょうか。仮にそうであれば日本のしきたりにもある "お宮参り" と変わらないのではないか。

 ちなみに"お宮参り"とは、生後約1ヶ月を迎えると晴れ着を着て地域の氏神様へ神様の氏子として認めて戴くために、お参りをします。それは、生まれた子が、これからその地域で生きていく一人の人間として地域の人々に受け入れて戴くためのお参りです。このように日本の"お宮参り"では、初めてこの世に生を受けたものが神様と地域の人々に受け入れて戴くことを儀礼として "お宮参り"をしています。
 しかし、イエス・キリストの公現は、イエスが神の子であり、神がその独り子を通して栄光を全ての民に証明し、全ての人の救いの源となられた、その方をお迎えするということです。それは同時に、全ての民が神様の招きに応じて戴いた信仰と希望のうちに、神様の愛の懐に受け入れて戴けることを忘れないように記念するお祝いの日なのです。これが今日お祝いする「主の公現」です。

 さて今日の祝日の意味が理解できたところで、福音を読みますと占星術の学者たちが、星に導かれて東の地方からエルサレムに来て "ユダヤ人の王として生まれた方はどこですか" と話したことから始まります。当時、ユダヤの国を治めていたヘロデ王は勿論「それを聞いて不安を抱いた」と記されていますが、エルサレムの人々も皆、同様であったとあります。ヘロデ王が不安になるのは、当然かもしれませんが、エルサレムの人々も同様であったのでしょうか。ヘロデ王の不安とは、異なるように思います。いずれにしても占星術の学者たちは、星を見て、導かれて来たことは確かです。
 そしてヘロデ王は、不安であれば自分も占星術の学者らと一緒に探しに行けば良いのではないでしょうか。何かヘロデ王の権威主義的思惑(人間の醜さ、傲慢さ、貪欲さなど)が込められているように感じさせられます。つまり、権威ある座についた者の僕とは異なる態度の有り様が描かれているようです。それはまた、占星術の学者たちとヘロデ王の姿からも明確に観られる "民主主義と権威主義" といった対照的な姿を読み人に訴えているように思います。そして、その狭間にマリアとヨセフの愛に包まれた独り子イエスの姿が、光り輝いているように思います。

 今日のこの光景は、現代社会に真の平和とは何かと訴えているように思いませんか。これこそ主の公現を祈念する祝日ではないでしょうか。

参考:(第一朗読:イザヤ60・1-6)・(第二朗読:エフェソ3・2、3b、5-6)