2024年03月30日の聖書の言葉

3月31日 復活の主日 (徹夜祭) マルコ16・1-7

 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤヘ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」

祈りへの招き

祈りへの招き

 空の墓にいた若者は、なぜわざわざペトロの名を挙げて「弟子たちとペトロの所に行って伝えなさい」と言ったのでしょうか? その僅か三日前に、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と宣言したペトロが、イエスの予言通りに三度イエスを知らないと言ってしまったことと関連があるに違いありません。

 ペトロは肝心なところで三度「知らない」と言ってイエスとの関係を完全に否定してしまいました。あわせる顔がない状態になってしまったのです。そのようなペトロに、「ガリラヤで待っているから会おうよ」と言ってくださったのです。他の弟子たちも同様です。「皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(マルコ14・50)からです。

 若者が婦人たちに告げたこと、それは、復活されたイエスは決してペトロや弟子たちを見捨てることはないということでした。イエスは弱い人間の罪を背負って十字架に架かってくださったこと、こうして罪の赦しが与えられたということでした。

 祈りましょう。
 神は招いてくださっています。「先にガリラヤへ行かれて待っておられる。そこでお目にかかれる」

 復活されたイエスとの出会いによって、罪が赦され、喜びの内に主と共に生きていくことができますように。 アーメン。

参考:(旧約:出エジプト14・15-15・1aほか)・(使徒:ローマ6・3-11)


2024年03月23日の聖書の言葉

3月24日 受難の主日(枝の主日) マルコ15・1-39

※福音個所は長いので聖書をご参照ください。

祈りへの招き

祈りへの招き

 十字架のそばに居合わせた「通りかかった人々」と「百人隊長」に注目したいと思います。
 「通りかかった人々」は「十字架から降りて自分を救ってみろ」とイエスをののしりました。一方で、イエスの方を向いてそばに立っていた「百人隊長」は、十字架上におけるイエスのお姿をそばで目撃し、息を引き取られたお姿を見て、「本当に、この人は神の子だった」と告白したのです。
 イエスの間近でイエスの言動を目の当たりにしてきた弟子たちではなく、イエスを裁き、十字架刑に処した異邦人によって神の子であることが告白されたことに注目したいと思います。

 彼の仕事は十字架刑を執行するローマ兵の隊長であり、死刑執行の責任者でした。これまで、残虐な殺人事件やローマへの反逆罪によって極刑に処せられる人の姿を何度も見てきたことでしょう。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23・34)と祈るお姿や、十字架にかけられた犯罪人とのやりとり(同39-43)を間近に目撃した百人隊長は、神の救いの業に触れて、「イエスは神の子である」ことを告白する恵みをいただくことができたのです。

 祈りましょう。
 イエスの十字架のそばにいても「十字架から降りて自分を救ってみろ」と罵って通り過ぎるだけの人もいました。私たちが、いつも近くにいて招いてくださっているイエスのお姿に目を向けて、主の招きに応えて歩んでいくことができますように。 アーメン。

参考:(第一朗読:イザヤ50・4-7)・(第二朗読:フィリピ2・6-11)


2024年03月16日の聖書の言葉

3月17日 四旬節第5主日 ヨハネ12・20-33

 さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。

 今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」

 イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。

祈りへの招き

祈りへの招き

 イエスは、十字架上の死と復活によって、世をあがなってくださいました。「自分の命を憎む者」とは、イエスに従うことを一番に考えて、イエスの生き方に倣う者を指しています。

 麦は、蒔かれて土の中で発芽することによって、元の麦の粒の姿は消えてしまいますが、多くの実を結ぶことができます。「憎む」の語源は「執着しない」ということです。麦の粒のままでいることへの執着を取り去り、他者を生かすことが、真の実りをもたらすのです。

 祈りましょう。
 天地創造の初め、「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(創世記2・7)。

 神からいただいた命を「愛する」、すなわち神からいただいた賜物に固執し、自分のためだけに使おうとする誘惑に打ち勝つことができますように。そして「命を憎む」、すなわちいただいた賜物や時間を人々の幸せのために捧げる生き方を選ぶことができますように。 アーメン。

 

参考:(第一朗読:エレミヤ31・31-34)・(第二朗読:ヘブライ5・7-9)


2024年03月09日の聖書の言葉

3月10日 四旬節第4主日 ヨハネ3・14-21

 そのとき、イエスはニコデモに言われた。「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」

祈りへの招き

祈りへの招き

 ファリサイ派に属するユダヤ人の議員であったニコデモは、イエスの言動やなさったしるしに心を動かされ、「この方は、神のもとから来られた方に違いない」と確信していました。

 本日の福音書は、夜にこっそりとイエスを訪ねたときのイエスとニコデモとの対話を伝えています。後にニコデモは、十字架上で亡くなられたイエスの埋葬にも深く関わることになったと聖書は伝えています(ヨハネ19・39)。そのニコデモに対して、「聖書の教えの神髄である」(マルチン・ルター)と言われる次の御言葉をイエスは述べられました。

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3・16)

 祈りましょう。
 周りの目を気にしながらもイエスを訪ねたニコデモの勇気に注目したいと思います。彼は「あなたがたは新たに生まれねばならない」(同3・7)と話されたイエスの御言葉を理解することはできませんでしたが、心に留め、イエスの御受難にも深く関わることができました。
 本日の福音書には「光」と「世」が5回ずつ登場します。イエスは神の愛を照らす「光」です。一方で「世」とは、神を信じることをせず、自分の力で救いを得ようとする人を指しています。自分の行いを良しとして変えたくない人のことです。

 私たちが光に背を向けることなく、降り注ぐ神の愛に身を委ねて歩んでいくことができますように。 アーメン。

参考:(第一朗読:歴代誌下36・14-16、19-23)・(第二朗読:エフェソ2・4-10)


2024年03月02日の聖書の言葉

3月3日 四旬節第3主日 ヨハネ2・13-25

 ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムヘ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。

 イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。

祈りへの招き

祈りへの招き

 神殿境内でのいけにえ動物販売も、ローマ貨幣を神殿に納めるユダヤ貨幣に両替することも、参拝者に便宜を図る大切な役割でした。ではなぜイエスは、羊や牛を境内から追い出し、両替人の金をまき散らすという暴力的な行動に出られたのでしょうか?
 イエスは、誰に向かって「わたしの父の家を商売の家としてはならない」と話されたのでしょうか? 真っ先に浮かぶのは「神殿で商いする人」だと思います。参拝者への奉仕を第一とせずに、金儲けを最優先にしていませんか?と訴えかけられたのかもしれません。

 でもそれだけでしょうか? 私を含め多くの人が該当するであろう「参拝者」に対する警告として、このイエスの言葉を捉えたいと思います。
 日々の祈りを振り返ってみましょう。熱心に祈っているつもりでいて、実は、祈りの中心に自分自身がいるということになっていませんか? 祈りと引き換えに、神に自分の願いの実現を要求しているのだとすれば、それは、神と商売をしていることになるのではないでしょうか。

 祈ります。
 今日の御言葉を心に留めて、神との対話の時間をもっと大切にしたいと思います。切実な願い事から小さな成功を求める祈りなど、自分自身や家族、身近な人に「こうなって欲しい」と結論まで指定して、その実現を神にお願いやおねだりしてこなかったでしょうか。
 イエス様はゲッセマネの園で、「この杯をわたしから取りのけてください」と祈った後に、「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(マルコ14・36)と祈られました。マリア様は「どうして、そのようなことがありえましょうか」(ルカ1・34)と戸惑いながら答えられた後に「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(同38)と祈られて、神の子の母となることを受諾されました。

 イエス様、マリア様の祈りの姿勢に倣って、祈りの結びには「でも、あなたの御心が実現されますように」と唱えることができますように。 アーメン。

参考:(第一朗読:出エジプト20・1-17)・(第二朗読:①コリント1・22-25)