安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤヘ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」
空の墓にいた若者は、なぜわざわざペトロの名を挙げて「弟子たちとペトロの所に行って伝えなさい」と言ったのでしょうか? その僅か三日前に、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と宣言したペトロが、イエスの予言通りに三度イエスを知らないと言ってしまったことと関連があるに違いありません。
ペトロは肝心なところで三度「知らない」と言ってイエスとの関係を完全に否定してしまいました。あわせる顔がない状態になってしまったのです。そのようなペトロに、「ガリラヤで待っているから会おうよ」と言ってくださったのです。他の弟子たちも同様です。「皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(マルコ14・50)からです。
若者が婦人たちに告げたこと、それは、復活されたイエスは決してペトロや弟子たちを見捨てることはないということでした。イエスは弱い人間の罪を背負って十字架に架かってくださったこと、こうして罪の赦しが与えられたということでした。
祈りましょう。
神は招いてくださっています。「先にガリラヤへ行かれて待っておられる。そこでお目にかかれる」
復活されたイエスとの出会いによって、罪が赦され、喜びの内に主と共に生きていくことができますように。 アーメン。
参考:(旧約:出エジプト14・15-15・1aほか)・(使徒:ローマ6・3-11)