2023年07月29日の聖書の言葉

7月30日 年間第17主日 マタイ13・44-52(44-46)

 そのとき、イエスは人々に言われた。「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。

 また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」

 「また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」

み言葉の分かち合い

み言葉の分かち合い

 マタイ福音書13章でイエスは7つのたとえ話を語っています。本日の福音箇所は、最後の3つ「隠された宝」「高価な真珠」「漁師の網」のたとえ話です。ここでは「真珠のたとえ」に注目したいと思います。

 「真珠のたとえ」には、2通りの解釈があるようです。

 商人真珠
解釈1私たち神の国
解釈2神様私たち

 あなたはどうお考えになるでしょうか?
 伝統的には(解釈1)が採用され、神の国という最高の宝物を発見した商人(私たち)は、地上のすべての富(地位や財産など)を投げうって、真の宝物を手に入れると考えられてきました。でも、私の推しは(解釈2)の方です。
 教皇フランシスコは、2017年「第32回世界青年の日」教皇メッセージの中で、「真珠は真珠貝にできた傷から生まれます。イエスはご自分の愛によって私たちの心をいやし、私たちの人生を真の真珠に変えることができます」と述べておられます。
 真珠は、あこや貝に異物(核)が入り込む(養殖の場合は人為的に)と、貝を守るための物質が分泌され、侵入した異物を取り込むようにして真珠層が形成されます。この層が幾重にも異物を取り囲むことによって、美しい真珠が作られるのです。あこや貝が異物の侵入に痛みを感じているかどうかは、(貝のように口を閉ざしているので)わかりません。しかし、私たちの人生を貝にたとえるならば、苦しみや痛みに直面したとき、周りの人たちが優しく包み込み、支えるとき、素晴らしいもの(美しい真珠)が生まれると考えることができるのではないでしょうか。そして神は、すべてを投げ出して(=御ひとり子イエス・キリストまでお与えくださって)その真珠をご自分のもとにおいてくださるのです。

*キーワード1: 見つけた人、探している人
 「畑に隠された宝」、当時のユダヤ地方は世情が不安定であり、宝を畑に隠すことは突拍子もないことではありませんでした。ただし、隠した本人以外の者が偶然その宝を見つける可能性は極めて低いと考えられます。
 「良い真珠」を見つけることも、難しいという点では同じです。あこや貝の貝殻を開きながら、「よい真珠が入っていないか」根気強く探し求める商人の姿が目に浮かびます。

*キーワード2:古い物、新しい物
 52節の「古い物」は「旧約聖書」を指し、「新しい物」は、私たちが手にする「新約聖書に記されているイエスの言葉と行い」、さらには、キリストの光が当てられて読み返した「旧約聖書を通して示された神の教え」を指すと考えられます。

 3主日にわたり、マタイ13章に記された7つのたとえ話が朗読されました。イエスはたとえを用いて、神の国のすばらしさを説いてくださいました。私たちがとるべき姿を、種蒔きに出かける農夫や、良い真珠を求める商人の行動を通して、示してくださいました。
 弟子たちのように、あなたの御言葉を通して真理を理解することができる賜物が与えられますように。かたくなさを退け、聞く耳を持つ者としてください。主、キリストによって。 アーメン。

参考:(第一朗読:列王記上3・5、7-12)・(第二朗読:ローマ8・28-30)


2023年07月22日の聖書の言葉

7月23日 年間第16主日 マタイ13・24-43(24-30)

 そのとき、イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。

 「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」

 イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」

 イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

 「わたしは口を開いてたとえを用い、天地創造の時から隠されていたことを告げる。」

 それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。イエスはお答えなった。「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」

み言葉の分かち合い

み言葉の分かち合い

 マタイ福音書13章には、7つのたとえ話が登場します。本日の「毒麦のたとえ」「からし種」「パン種」はその2~4番目です。

 イエスは度々たとえを用いて話されました。イエスのたとえ話は、日常よく見かけることを例に挙げられており、人々にとってわかりやすいものでした。この「毒麦のたとえ」も、イエスの時代、パレスチナの農園で広く行われている方法でした。
 毒麦は、成長すると色が黒くなり、良い麦との区別が容易になるのですが、まだ小さい頃は区別がつきにくかったようです。ですから農夫たちは、収穫の時まで待って、先に良い麦だけを収穫し、その後に、毒麦を集めて燃料として用いてきました。イエスは、この生活の知恵を例に挙げて、天の国のありようを語られたのです。
 「毒麦のたとえ」からわかることは、毒麦が刈り取られるのは収穫の時であり、今ではないこと。その時(終末の時)が来れば、神が必ず毒麦を焼き尽くされること。毒麦への裁きは神に委ねるべきことを悟ることができます。神は悪に対しても憐れみ深く、忍耐強く接してくださることが示されています。

 「からし種」は当時の人々が育てる植物の中で最も小さく、蒔かれていることにすら気づかないほどですが、成長すると4m以上の大きな木となることを、皆知っていました。「パン種」のたとえは、少量のパン種が、小麦粉3サトン(=約40ℓ、100人分のパンに相当)を膨らませることができるという、現代の私たちにも、身近で納得しやすいたとえですね。

*キーワード1:毒麦
 教会や職場、地域などの人々が集うところには、協調性に欠けるなど、毒麦としか思えない人(失礼!)がいる、という経験をされたことはないでしょうか? 本日の福音で、イエスは「毒麦を排除しようとすると、よい麦も排除してしまうよ」「良い麦なのか?毒麦なのか?その判断は、神にお委ねすべきものですよ」と教えてくださっているのです。
 「私は良い麦?」「私は毒麦?」、その見定めをすることよりも、むしろグレーゾーンにあると考えて、心の中の毒の部分の「無毒化」にチャレンジすること、さらに、毒麦にも燃料としての存在価値があることから学んで、個性として生かしていくことができるように、神の忍耐強さに甘えて、「無毒化」「良い麦化」を図っていきたいと思っています。

*キーワード2:「群衆」と「弟子」の違い
 「群衆」は家の外に、「弟子」たちはイエスと共に家の中に入ることが許されていることがわかります。
 イエスのたとえに耳を傾けて、「天の国の秘儀」を聞き取ることができる者が「弟子」、できない者が「群衆」。

参考:(第一朗読:知恵12・13、16-19)・(第二朗読:ローマ8・26-27)


2023年07月15日の聖書の言葉

7月16日 年間第15主日 マタイ13・1-23(1-9)

 その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。

 「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。」

 弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。イザヤの預言は、彼らによって実現した。
 『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、
 見るには見るが、決して認めない。
 この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。
 こうして、彼らは目で見ることなく、
 耳で聞くことなく、心で理解せず、
 悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』
 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。

 だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」

み言葉の分かち合い

み言葉の分かち合い

 マタイ福音書13章には、7つのたとえ話が登場します。本日の「種を蒔く人のたとえ」はその1番目です。御言葉をどのような心で受け止めればよいのか、基本的な心構えを教えるために、イエスはこのたとえ話を最初に持ってこられたのだと思います。
 本日の福音箇所は1~9節「種を蒔く人」のたとえ、10~17節「たとえで話す理由」、18~23節「たとえの説明」の三部に分けることができます。

 「種を蒔く人のたとえ」を分析してみましょう。
 種を蒔く人はイエス、種は神の御言葉、種が落ちた場所は人間の心の状況、です。蒔かれた場所によって種はどのようになったのでしょうか。
・道端:鳥に食べられる(受け入れない固さ)
・岩地:枯れる(土が浅い、根を張る深さがない)
・茨の間:伸びることができない(雑草に水分、養分奪われる)
・良い土地:よき実を結ぶ

 私たちが神の御言葉に心を開いて受け入れるならば、神の御言葉はその人の心に深く根を張って、新たな命を芽生えさせてくださるのです。

*キーワード:たとえで話す
 イエスはたとえを用いて話す理由について「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。...」と言われます。
・イエスの弟子たち:たとえが心に響く。理解できる。
・イエスを拒む者:謎でしかない。

 旧約の預言者たちとは異なって、イエスの弟子たちには、救い主の言動を直接見聞きできる恵みが与えられました。現代の私たちも、福音書に記された弟子たちの証言を通して、この恵みに与ることが許されているのです。

 第1朗読は「イザヤ書55章10、11節」で、紀元前6世紀バビロン捕囚末期にバビロンで活躍した預言者(第二イザヤ)の言葉とされています。
 「雨も雪も、ひとたび天から降れば
 むなしく天に戻ることはない。
 それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ
 種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。
 そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も
 むなしくは、わたしのもとに戻らない。
 それはわたしの望むことを成し遂げ
 わたしが与えた使命を必ず果たす。」
 (──それにしても美しい御言葉です!)

 私たちも、雨や雪のように、降り立ったそれぞれの場所で、喜びも悲しみも共にできる仲間との出会いを大切にし、よき影響を与え合い、与えられた役目を果たし、いつの日か天に戻り、神の御許で、永遠の安らぎを得ることができますように。 アーメン。

参考:(第一朗読:イザヤ55・10-11)・(第二朗読:ローマ8・18-23)


2023年07月08日の聖書の言葉

7月9日 年間第14主日 マタイ11・25-30

 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

み言葉の分かち合い

み言葉の分かち合い

 マタイ福音書前半の「ガリラヤでの宣教」の部分は、「弟子を集めながらイエスご自身が宣教する」4~9章、「弟子を遣わしながら訓練する」10~18章の二部に分類できます。本日の福音はその後半部分です。

 「知恵ある者、賢い者」とは、ファリサイ派の人のように、自分の力で救いを得ようとする者、世の価値観、常識に長けた人を指し、「幼子のような者」とは、神に信頼するしか方法がない者、聞いた福音を素直に信じる者を指しています。いくらこの世に財産を持っていても、天の国へ持っていくことはできません。この世の重荷を手放すことには勇気がいるかもしれませんが、主の御言葉を受け入れて、神の御旨に適う生き方をしませんか?と、イエスは呼びかけてくださっています。

*キーワード1:謙遜な
 原語「タペイノーシス(ギリシア語)」は「身分が低い」ことを指す言葉で、「謙遜」とは若干ニュアンスが異なります。「マリアの賛歌」(ルカ1・48)でも同じ単語「タペイノーシス」が使われていますが、こちらは新共同訳では「身分の低い、主のはしため」と、原文に近い訳が採用されています。
▶英語では:I am gentle and humble in spirit.
 というように"humble"
 ①謙遜した ②低い、卑しい、という単語が使われています。(原文に近い訳は②だったのかもしれません。)
▶ルカ1・48では:lowly servant
 というように "lowly" 低い、という単語が使われています。
 (和英対照新約聖書・新共同訳/TEV)より

*キーワード2:軛(くびき) 家畜の連獣具、木の棒と綱で作られたもの、自由を奪うもの。
 牛や馬の首に木製の枠をはめて、2頭の動物が離れることがないように固定し、農具をつないで耕作させたり、荷車をつないで荷物を運ばせたりするための木の枠のことです。イエスは「わたしの軛」と言われていますので、イエスご自身に木の枠がはめられていることがわかります。負いやすくて軽いイエスの軛を「一緒に負いましょう」と誘ってくださっているのです。
 つまり、イエスの軛が負いやすく軽いのは、イエスが共にいて背負ってくださるからなのです!
 イエスの軛によって、イエスと離れることなく、イエスとの絆に結ばれて、豊かな祝福をいただくことができます!

参考:(第一朗読:ゼカリヤ9・9-10)・(第二朗読:ローマ8・9、11-13)


2023年07月01日の聖書の言葉

7月2日 年間第13主日 マタイ10・37-42

 その時、イエスは使徒たちに言われた。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。

 あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」

み言葉の分かち合い

み言葉の分かち合い

 本日の福音書は、「派遣説教」の最終場面です。人生において家族の存在は欠くことができない大切なものです。しかし十字架を背負い、弟子としてイエスに従うためには、イエスとの関わりを最優先しなければならないと諭されました。「自分の命を得ようとする」=「イエスとの交わりを持たずに生きようとする」。「イエスのために自分の命を失う」=「イエスが十字架を通して示された生きるべき命を得る」。「宣教者をもてなす」=「イエスを迎え入れる」=「神を迎え入れる」。ことなのです。

*キーワード1:自分の十字架を担う
 「自分の十字架を担う」とありますが、何を担うのでしょうか? 「自分自身の苦しみを背負う」ことなのでしょうか? 少なくともイエスは、ご自身の苦しみではなく、「人々の罪を自分の十字架として背負って」くださいました。イエスをお手本とするのであれば、背負うのは自分自身の苦しみではなく、「他者の苦しみや悩みを自らの苦しみや悩みとして背負い、寄り添い、共に歩む」ことではないでしょうか。

*キーワード2:冷たい水一杯
 たったコップ1杯の水とあるので、「僅かなこと」という意味に思えるかもしれませんが、果たしてそうでしょうか? 冷蔵庫がない時代に、暑さが厳しい地域で「冷たい水」を得ることは、手間と時間を要するものでした。本田哲郎神父は著書『聖書を発見する』(岩波書店)の中で次のように述べておられます。
 「朝、水をくんで、素焼きの大きな瓶(カメ)一杯にしておきます。素焼きなので瓶の壁面の肌から水がにじみ出て、外の気温が50度ぐらいで乾燥しているので、すぐ蒸発します。その気化熱で、水瓶の中の水が冷える訳です。ですから、使わなくても、水はどんどん減っていきます。冷えた水は貴重品なのです。自分の目の前の貧しく小さくされた人たちにぬるくなった水ではなく、よく冷えた貴重な水を差しだすということは、まさに尊敬の念をこめた関わりを意味する言葉なのです。」

 「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、(最高のもてなしとして)冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」と読み直して、この聖句を味わってみてください。

*スモール・キーワード:和菓子「みなづき」
 ういろうに小豆をのせた三角形の和菓子。6月水無月(みなづき)の最終日に食べる習慣があります。室町時代、宮中では旧暦6月1日に氷を食べて夏バテを防ぐ風習がありました。当時、氷室(ヒムロ)と呼ばれる洞窟などの涼しい所で冬に氷を貯蔵し、雪やおがくずで囲んで保存しました。夏の氷は貴重品でした。氷が手に入らない庶民が氷に似せて創った和菓子なのです。

参考:(第一朗読:列王記下4・8-11、14-16a)・(第二朗読:ローマ6・3-4、8-11)