そのとき、イエスは人々に言われた。「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」
「また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」
マタイ福音書13章でイエスは7つのたとえ話を語っています。本日の福音箇所は、最後の3つ「隠された宝」「高価な真珠」「漁師の網」のたとえ話です。ここでは「真珠のたとえ」に注目したいと思います。
「真珠のたとえ」には、2通りの解釈があるようです。
商人 | 真珠 | |
解釈1 | 私たち | 神の国 |
解釈2 | 神様 | 私たち |
あなたはどうお考えになるでしょうか?
伝統的には(解釈1)が採用され、神の国という最高の宝物を発見した商人(私たち)は、地上のすべての富(地位や財産など)を投げうって、真の宝物を手に入れると考えられてきました。でも、私の推しは(解釈2)の方です。
教皇フランシスコは、2017年「第32回世界青年の日」教皇メッセージの中で、「真珠は真珠貝にできた傷から生まれます。イエスはご自分の愛によって私たちの心をいやし、私たちの人生を真の真珠に変えることができます」と述べておられます。
真珠は、あこや貝に異物(核)が入り込む(養殖の場合は人為的に)と、貝を守るための物質が分泌され、侵入した異物を取り込むようにして真珠層が形成されます。この層が幾重にも異物を取り囲むことによって、美しい真珠が作られるのです。あこや貝が異物の侵入に痛みを感じているかどうかは、(貝のように口を閉ざしているので)わかりません。しかし、私たちの人生を貝にたとえるならば、苦しみや痛みに直面したとき、周りの人たちが優しく包み込み、支えるとき、素晴らしいもの(美しい真珠)が生まれると考えることができるのではないでしょうか。そして神は、すべてを投げ出して(=御ひとり子イエス・キリストまでお与えくださって)その真珠をご自分のもとにおいてくださるのです。
*キーワード1: 見つけた人、探している人
「畑に隠された宝」、当時のユダヤ地方は世情が不安定であり、宝を畑に隠すことは突拍子もないことではありませんでした。ただし、隠した本人以外の者が偶然その宝を見つける可能性は極めて低いと考えられます。
「良い真珠」を見つけることも、難しいという点では同じです。あこや貝の貝殻を開きながら、「よい真珠が入っていないか」根気強く探し求める商人の姿が目に浮かびます。
*キーワード2:古い物、新しい物
52節の「古い物」は「旧約聖書」を指し、「新しい物」は、私たちが手にする「新約聖書に記されているイエスの言葉と行い」、さらには、キリストの光が当てられて読み返した「旧約聖書を通して示された神の教え」を指すと考えられます。
3主日にわたり、マタイ13章に記された7つのたとえ話が朗読されました。イエスはたとえを用いて、神の国のすばらしさを説いてくださいました。私たちがとるべき姿を、種蒔きに出かける農夫や、良い真珠を求める商人の行動を通して、示してくださいました。
弟子たちのように、あなたの御言葉を通して真理を理解することができる賜物が与えられますように。かたくなさを退け、聞く耳を持つ者としてください。主、キリストによって。 アーメン。
参考:(第一朗読:列王記上3・5、7-12)・(第二朗読:ローマ8・28-30)