2023年03月25日の聖書の言葉

3月26日 四旬節第5主日 ヨハネ11:1-45

 そのとき、ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。

 ラザロの姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」

 弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。

 さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。
 ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。
 マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

 マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、イエスは、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。

 イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。

 マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。

み言葉の分かち合い

み言葉の分かち合い

 ラザロを死から甦らせた出来事を通して、復活と永遠の命の与え主であるイエスご自身の姿を今日の福音は、伝えています。しかし、この伝え方には不思議な点が見られます。なぜイエスは、ラザロの病気を知りながら四日間もベタニアに行かなかったのか。イエスのいたエルサレムの場所とラザロの住まいは、たった15スタディオン(約3km)の距離なのです。何故、マリアとマルタは、ラザロの死を早くイエスに知らせなかったのか、理解に苦しむ箇所です。

 この不可解な点を考えるとこの福音箇所は、イエスの時間、地理的関係、ラザロの病うんぬんではなく、神から遣わされたイエスの業、それによって人が "闇の状態から光り輝く状態" へ変えられること。イエスの言う栄光とは、ご自身の受難、死と復活をラザロの死と復活に重ねておられることなのでしょう。

 イエスの業を目の当たりにした人々は、その業を通して "神を信じる" のか。またその業を行うイエスを "神の子と信じる" のかを試しているのでしょう。
 そのことをイエスは、姉妹の言葉に対して「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と断言しているのだと思います。弟子たちが制止したにも関わらず「もう一度ユダヤに行こう」と言われ出かけました。その時、イエスは「昼間は12時間あるではないか。・・・夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである」と言います。これは、当時ユダヤ社会にあって人が死んだ後、最後の審判までの時間を表していると言われています。
 その事と関連してラザロの死後、イエスと弟子たちが戻った時にマルタの語った「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。・・・」、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」の言葉で表現しているのでしょう。さらにマリアからも「もしここにいてくださいましたら、兄弟は死ななかった」と同じ言葉を繰り返し語られたのです。それは彼らに真の復活とは何かを教えることでした。
 そこで、神の子であることを信じていない彼らの悲しむ姿を見たイエスは「心に憤りを覚え、興奮して、言われた」のです。そして、墓に行ってラザロを復活させたのです。

 私たち人間にとって "死" は、誰にとっても悲しい、苦しい絶望の時です。しかし、イエスにとっては「神の栄光」を表す出来事なのです。イエスの憤り、興奮して「どこに葬ったのか」と話した言葉は、"まだ信じることができないのか" という虚しさからなのか。愛する兄弟の死によって打ちひしがれた苦悩の姿を見てご自身も悲しまれたからなのか。両方の悲しみがあったのでしょう。
 これからイエスご自身が背負っていかなければならない十字架上の死を想起し、その時の弟子たちの苦悩を思い巡らされたのかもしれません。

 イエスは、全ての人の罪のために受難、十字架上の死、そして死でご自身が終わるのではなく、必ず、そこから復活することを約束しています。この復活するイエスへの信仰、この大きな恵みに全ての人が導かれますように。

参考:(第一朗読:エゼキエル37・12-14)・(第二朗読:ローマ8・8-11)


2023年03月18日の聖書の言葉

3月19日 四旬節第4主日 ヨハネ9:1-41

 そのとき、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、「シロアム[『遣わされた者』という意味]の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。

 そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。

 人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。

 それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。

 さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」
 彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。

 イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずいた。イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」

 イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」

み言葉の分かち合い

み言葉の分かち合い

 今日も四旬節に相応しい" 救いと回心のプロセス "を具体的に伝えています。特にイエスの姿勢は、人々からの殺意の危険を感じると、争うことなくその場から退かれます。しかし、決して身を隠すことなく、出かける先々で出会う人々に語りかけられます。
 不思議なことは、これら一連の出来事がエルサレム城内で、またその近郊で起こっている事です。

 さて、通りすがりに出会った生まれつき目の見えない人に対してイエスの弟子たちは、" この人の目が見えないのは、本人か両親が罪を犯したからですか "とイエスに尋ねました。するとイエスは「・・・神の業がこの人に現れるため・・」と言われます。目の見えない人の立場に立って考えますと、不条理、不公平、差別だと思います。しかし、イエスは「神の業がこの人に現れるため」と答えています。つまり、イエスは生まれつき目の見えなかった人を癒し、目を見えるようにすることで、それを見た人たちが神を知ると考えたのでしょう。
 ところが「神の業」と信じたのは、目の見えなかった人、この癒された人だけでした。弟子たちについて記されていませんが、ファリサイ派の人々や癒された人、そして彼の両親とのやり取りを弟子たちも傍で聞いていたと思います。彼らは、イエスの業を静観しながら、それまでの出来事と重ねて聞いていたでしょう。

 ファリサイ派の人々の中には、目の見えなかった人の説明を信じる人と信じない人とに分かれたとあります。そして、信じない人の考えは、" 生まれつき目の見えなかった人に奇跡が起こるはずがない "罪人だから、ということが彼らの判断基準の前提になっているのです。したがって、信じないファリサイ派の人々は、どのようにして目が見えるようになったのか、自分たちの判断基準と比べながら同じ問いを繰り返したのでしょう。彼らは律法で教えられたこと、自分の範疇で決めた神以外の神を信じられなかったのです。多分、目の見えなかった人もイエスと出会う前までは、同様でした。しかし、素直な心をイエスの言葉(ことばと出来事)に向けることで信じる事ができるようになりました。

 イエスは言われます " 目の見えなかった人が見えるようになったのを直接見ているにもかかわらず、まだ神の存在、神の業を知らないと言い張る頑なな人の心に罪は残ります "と。
 私たちもみ言葉を素直な心で受けとめ、日々の生活を生きる事によって、神の業に気づくことが出来ますように。

参考:(第一朗読:サムエル上16・1b、6-7、10-13a)・(第二朗読:エフェソ5・8-14)


2023年03月11日の聖書の言葉

3月12日 四旬節第3主日 ヨハネ4:5-42

 そのとき、イエスは、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。

 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」

 イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」

 ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。

 その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」

 さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」

み言葉の分かち合い

み言葉の分かち合い

 今日の福音は、イエスとサマリア人の女性との間で「水」を通して、イエスが誰であるか、イエスの言う水とは何かを話されます。そして、イエスと弟子たちとの間で「食べ物」を通して、宣教とは何かを話されています。

 当時、サマリア人はユダヤ人から忌み嫌われていました。その為、ユダヤ人はサマリア人の住む地域を避けてガリラヤ地方を往来していたようです。しかし、イエスは、あえてサマリア地方を通ってガリラヤへ向かいます。その途中、サマリアのヤコブの井戸での出来事です。
 昼時、弟子たちはイエスを残して食べ物を探しに何処かへ出掛けました。丁度その時、一人のサマリア人女性が、ヤコブの井戸に水を汲みに来ました。井戸の傍にいたイエスは、喉が渇いたのかその女性に「水を飲ませてください」と言います。すると女性は「サマリア人の私に・・・頼むのですか」と答えます。またサマリア人の女性は、イエスが普通の人ではないと直感し「主よ・・・」と呼びます。さらにイエスから「あなたと話しているこの私だ」とメシアであることを知らされます。
 イエスが女性に話された水は、人間にとって必要な生きる水と永遠の命に至る水、この二つの意味が込められています。イエスは神の子であり、神の働き、それは霊によって証しされます。その霊が今日の福音では「水」に喩えられているのです。

 水は喉の渇きを潤すものであると同時に、人の心を癒す泉でもあるのです。その水は、乾くことのない永遠の命に至る水なのです。イエスがサマリア地方を通られたのは、神の救いがユダヤ人だけではなく、全ての人の救いだからです。「水」は神の霊のシンボルであり、その霊は枯渇しない水を与えるのです。
 イエスのもとに戻った弟子たちは、イエスに「知らない食べ物」と言われて、他に食べ物を探そうとします。しかし、イエスは食べ物について「・・・御心を行い、その業を成し遂げることである」と言われました。イエスの言う食べ物とは「人はパンだけで生きるのではなく、人は神の口から出る全ての言葉によって生きる」。つまり、神の言葉を指して言われたのです。

 最後にサマリアの人々が女に断言します。「私たちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。私たちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であるとわかったからです。」
 私たちも生活の労苦を通して、み言葉を体得する時、真に渇くことのない水の喜びを味わうことでしょう。

参考:(第一朗読:出エジプト17・3-7)・(第二朗読:ローマ5・1-2、5-8)


2023年03月04日の聖書の言葉

3月5日 四旬節第2主日 マタイ17:1-9

 そのとき、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。

 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。

み言葉の分かち合い

み言葉の分かち合い

 今日の福音は、イエスが光り輝く姿に変容する神秘的であるのと同時に、神の子であることを明かす場面です。この重要な時に、なぜかその場に立ち会ったのは、ペトロ、ヤコブ、その兄弟ヨハネの三人だけでした。どうして三人だけだったのか不思議です。

 イエスのご変容は、初めてご自身の受難、死、そして復活を弟子たちに予告した直後の事です。ペトロは、イエスが受難、死、復活を予告した際、イエスを諌めたことでひどく叱責されました。にもかかわらず、何故ペトロと他の二人の弟子だけが呼ばれて山に連れて行かれたのか。
 この場面から推測するとペトロへの叱責と何か関係があったと推測します。つまり、死だけにこだわるあまり、そのあとで実現される復活に目を向けられなかったペトロの諌めです。そこでイエスの配慮からか、ペトロだけだとおぼつかないのでヤコブとヨハネを選びました。そして彼らにだけご自身の死後、必ず復活すること、ご自身が神の子である証拠を明かされたのではないでしょうか。イエスにとって山は祈りの場所、神との出会いの場所、日常生活から離れた神聖な場所でした。その山へ特別に選んだ弟子だけを連れ出したのです。

 山に着くと弟子たちの前で突然イエスの姿が輝き始めます。そこに旧約聖書を代表するモーセとエリヤが現れ、彼らと話している様子が記されています。これはイエスが神の子である証しと、ご自身の予告に対して戸惑った弟子たち、特にペトロ、ヤコブそしてヨハネに対してご自身の死は、死で終わらないで、必ず復活することを可視化したのです。残念ながらペトロは、そうとも知らず旧約を代表する二人の人物を見て、この現実を他の弟子たちにも見せたい、その為に彼らを留めておく手段として仮小屋を建てようと考えたのでしょう。
 ペトロの言葉から、イエスが誰であるかを明かす神の業に追随することの難しさ、言葉で表現することの難しさを感じさせられます。ところがペトロの言葉は、イエスをモーセとエリヤと対等に扱っています。そこで弟子たちに「・・・私の心に適う者、これに聞け」と神の声を雲の中から聞かせます。それによってイエスがメシアであること、真に神の子であることを教えます。
 この出来事は、日常に戻り宣教する弟子たちを励ます意図もあったでしょう。

 イエスはいつも私たちと共にいて励ましてくださっています。み言葉を聞き、み言葉と共に生きることで、あなたの中でも神の声が聞こえますように。

参考:(第一朗読:創世記12・1-4a)・(第二朗読:二テモテ1・8b-10)