この(Colleen's Corner)は少し視点を変えたエッセイです。
(カトリック教育施設の写真も毎回掲載します)
(学)愛徳学園 愛徳幼稚園
愛徳学園の
前回、私のかつてのクラスメイトがふれたレッドウッドをめぐる省察について書きました。
それは預言者エレミヤによる言葉、「水のほとりに植えられた木」のように「水路のほとりに根を張り」(17:8a)という聖句にヒントを得たものですが、語りの道筋を誤っていたようです。
引用した箇所に載っている譬えの中の、重要な初めの部分に焦点を当てるのを怠ってしまったのです。さらに、エレミヤの書の第17章5‐6節の部分にはふれなかったのです。
ここでは「呪いと祝福」とを効果的に並置させるという、聖書によくある技法が用いられています。
エレミヤは紀元前7世紀から6世紀、政治的宗教的動乱のときに活躍したヘブライの預言者ですが、その口からはまず、こんな言葉が出てきます。
主はこう言われる。
呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし
その心が主を離れ去っている人は。(エレミヤ書 17:5)
自分により頼む者は「荒れ地の裸の木」のようで、「 恵みの雨を見ることなく 人の住めない不毛の地 炎暑の荒れ野を住まいとする」(17:6)。
エレミヤ自身は、主なる神がすべてを直接的に治めていると信じていたかもしれません。
私たちはといえば今日、災難はときに私たちの行動から自然に導かれた結果であると見るのですが。
これに続いて、この預言は祝福された人々、即ち「主により頼む」人々へと向かいます。彼らは関わりの大切さを認め、そこに信頼を寄せるのです。彼らは川のほとりに植えられた木のように、青々として、実を結ぶのです(エレミヤ17:7-8)。
彼らは、ジョンのイマジネーションにあったように、その根っこがたがいに絡まりあった木々なのです。
このエレミヤの預言にはたしかに、人々を呪われた者と祝福された者といった二つのグループに単純に区分けするなど、問題点もないわけではありません。また、そこには主に信頼するとはどういうことか具体的に示したり、また三千年前のヘブライ人のパーソナルな神が語られたりしています。
それでもレッドウッドの根っこが示してくれる力強い譬えをふくむその構成とイメージは、今日、私にも思い描きやすい明快なメッセージを送ってくれるのです。
嵐を生き抜き、春に芽吹くために、私たちは互いに力や手段、資源を分かち合う必要があります。私たちの全幅の信頼は、目に見えるものではなく、感じることのできるものにこそ、おかれるのです。
次回のお話は5月4日に掲載予定です。