2024年05月のコリーンのコーナー

(東京)(学)聖フランシスコ学園
小さき花の幼稚園
園庭のルルドと楽しい遊具

たんぽぽ ②

 心をこめて芝生の手入れをするお向かいさんの姿がいつしか遠のくと、別のイメージがふと湧いてきました。

 たんぽぽを思い描きながらも、私は『申命記』の一節を思いだしていたのです。
 これはいかに神の教えに忠実に生きいくかについて説いた『聖書』の一つの書物です。その第15章で、モーセは貧しい人々を助けることの大切さについて諭します。その民に告げて、モーセは言います。
 「この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。」(申命記15:11a)。この句が、私の思いをたんぽぽに結びつけたのです。

 お隣さんが美しい芝生づくりを固く決心したところで、芝生からたんぽぽを取り除くことはできなかったでしょう。「無くなることなんてないのになあ」、彼女の入れ込みようを目にして、そう思ったことがあります。

 もちろん、たんぽぽと貧しさに生きる人々とを単純に比較することなどできません。それでも歴史や経験が示すように、貧しさに生きる人々が、あたかもお向かいさんのタンポポのように、歓迎されていない状況を耐え忍んできたことはたしかです。幾世紀にもわたって、貧しい人々、または、社会が自ら思い描く構想の中に入らない人々は歓迎されてきませんでした。ところが、例外はあるものの、概してすべての人々は、たんぽぽのようにこの世界に美しさと恩恵とをもたらしてきたのです。

 モーセはさらに言葉をつなぎます。
 「それゆえ、わたしはあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい。」(申命記15:11b)。

 神は貧しさに生きる人々を迎え入れるよう命じる、とモーセは告げています。根こそぎにされるべきは、貧しさそのものなのです。

 「たんぽぽは 春のメインの 花ですよ。」正直のところ、たんぽぽが「春のメインの花」であると息子が宣言したとき、いったい何を考えていたのか分かりません。おそらく俳句の季語とかの規則に倣おうと必死になった結果かも知れません。それでも、このたんぽぽの飾らない美しさ、苦難からも立ちあがる力、その賢さこそは、この時期の生命力を告げるにふさわしいシンボルなのでしょう。たとえたんぽぽが、春の桜ほどほめたたえられることのない運命にあったとしても。

コリーン·ダルトン

次回は「畏敬の館 ①」のお話を6月2日にを掲載予定です。