2024年04月のコリーンのコーナー

(東京)マダレナ・カノッサ幼稚園
園庭の遊具と マダレナカノッサ像

ふりかえる ②

 古きを脱ぎ捨てて、新しきをまとう。これは聖書でもなじみのあるイメージです。

「イザヤ書」にもよく知られた節があります。神がイスラエルの民に告げて、流浪の旅から脱し、神の新たな創造のうちに繁栄を約束する箇所です。

「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない」(イザヤ書65章17節)。

 パウロはこのテーマをさらに復活という新たな文脈へと発展させます。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(コリントの信徒への第二の手紙5章17節)。

 また、「ヨハネの黙示録」は、次のイメージをもって新約聖書を締めくくっています。「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった」(黙示録21章4節)。

 これらの重要な箇所はすべて過去との断絶を強調し、多分にふりかりえを不要としています。

 ところが聖書は、ふりかえりをする人々や共同体の具体例をもっと多く描いています。かれらは新たな成長の期間を経験するのですが、他方で年相応な立ち居振る舞いができないような人々のエピソードが語られる期間をも経ています。

 ソロモンは甘やかされた子どものようにふるまいます。預言者ヨナは、神に仕えるよう呼びだされると、背を向けて逃げだします。エレミヤは嘆いてばかりです。

 イスラエルの民も、すでに置き去りにしたはずの偽りの神々に立ち戻ってしまうことがあります。またパウロも諸教会にその未成熟さを指摘する手紙を書き送っています。イスラエルの王たち、預言者、弟子たち、共同体、そして教会はみなくりかえし過去をふりかえっています。かれらには自らのアイデンティティの古い層が残っていて、ときにそれを意識せず行動に表してしまうこともありました。それでもかれらはまた神の愛の物語を思い出し、それから力を得てより大いなるものとなるのです。

 「そんなに変わるわけもないんだけどな。先生たちは、私たちが大きくなったと感じてほしいだけなんだよ。」

 娘は、先生たちにうまくのせられてきたと感じて、少し嘆いています。ある意味その通りなのでしょう。4月に突然、魔法がかかるってことはないのですから。それでも毎年、娘が3月になるとふりかえり、4月になると、驚くことに、私たちをうなずかせるほどのものを身につけているのです。

 娘は、娘自身の疑いをよそに、先生たちの「さらなるものへの期待」を育んでいたのです。

コリーン・ダルトン

次回は「たんぽぽ」①のお話を5月5日に掲載予定です。