2023年10月のコリーンのコーナー

天国さながら①

 ある朝、当時3歳の息子が突然「天国」という言葉の意味を私に尋ねてきました。

 そのころ我が家では1970年代初期に流行った「カントリー・ロード」という歌に夢中になっていました。8歳になる娘が学校で習ってきたのがきっかけです。

 その朝も、息子は英語で機嫌よく歌っていました。(こどもたちは日本で生まれ育ち、家ではわたしと英語で話してきたのでバイリンガルなのですが、必ずしも両国の言葉を同じペースで自分のものにしていたわけではありません。)ところが歌詞の「天国」(ヘヴン)という言葉につきあたると、はたと止まってしまいます。そして、「天国って何?」と訊いてくるのです。
 わたしは家族のお弁当をさっさとつくり終えて、一日を始めようと急いでいるところで、あえてじっくり時間をかけて答えようとはしませんでした。朝支度を遮られて、すこし苛立っていたかもしれません。ひとたびその問いに答えると、たてつづけに幼児期の「なんで?」が際限なく迫ってきそうな気配でしたから。息子にわかる言葉をあてがっておけばいいという誘惑に抗いながらも、こう答えました。

 「それは美しいところよ。神様のいる。」すると、間髪いれず息子はさも満足気に答えます。「ああ、それじゃあ、天国ってフーちゃんの学校みたいだね。神さまがいるし。」

 そのあとはまったく関係のない話題に移っていったのですが、事実だけを告げるような息子の即答ぶりに、わたしは思わずほほえみました。実際のところ近くのモンテッソーリ教育の幼稚園で、イシちゃん、ウサちゃん、フーちゃんという先生がたから受けていた教育に、私たちも心から満足していたのです。

 次に立ち止まりあらためて考えてみました。急いで答えはしたけれど、「天国とは神の住まわれるところ、または死後に向かうところ」といった答え方は意図的に避けようとしました。何かお伽噺に出てくる天空の城のようなイメージは直感的に遠ざけていたのです。

 事実、わたしが小さかった頃も、天国をそのように考えていたはずです。
 実は今でもあいかわらず、時空においてどこかかけ離れたところにある「場所」という天国のイメージから逃れられないでいるのです。
 息子がそれと同じような狭い見方に囚われないよう、また天国について自分なりに想像するよう励ますことができればよかったのですが、わたしの回答にはそれだけの説得力はありませんでした。それにも拘らず、息子はわたしの不十分な定義をみごとに焼き直すことで、かえってわたしに考えなおす機会を与えてくれたのです。

 「天国ってフーちゃんの学校みたいだね。神さまがいるし」、というふうに。

コリーン・ダルトン

                            

附記:本稿はカトリック長野教会教会報(2008年5月号)に
掲載された記事に加筆したものです。


今月から新しいコーナー「コリーンのコーナー」~(Colleen's Corner)が始まりました。
カトリック者として、母として、わかりやすい言葉で紡がれるこのコラムが 皆様にとって新しい視点発見になりますことを願い、お届けしてまいります。

筆者紹介 *コリーン・ダルトン(Colleen Dalton)*
アメリカ合衆国のボストンに生まれ、ボストン・カレッジ大学院を修了。
旧約聖書と応用言語学を研究。フィリピンで3年間大学と大学院で教える。
滞日26年、日本で大学教育に携わり、現在准教授を務める。
カトリック教会の教会報、「福音宣教」などにも寄稿。