2024年06月のコリーンのコーナー

(横浜)(学)星和学園
セント・メリー幼稚園
園舎と正門のマリア像

畏敬の館 ①

 祖父母の家が大好きでした。わたしの家とはかなり違っていたからです。坂道のてっぺんに建っていて、道が小さな町の中心に延びていました。どこが違うかというと、家には名前があり(ハイ・ストリート14番地)、二階のフロアがあって、張り出したポーチがカーブを描き、馬をつなぐリングつきの石柱が備えられていました。キッチンの脇にはひんやりしたパントリーがあって、正式に客をもてなすパーラーにはフレンチ・ドアがあり、そこにはピアノ、家具、見るからに古めかしくかびくさい本棚が備えてありました。

 この家はまたそれこそ多くの物語に満ちているように見えました。
 祖母は1898年に生まれ、そこで育ちました。わたしの父とその兄弟たちもここで成長します。これまで数多くの物語を聞いてきました。おもに父のいたずらの話です。ほかの住人の影もしっかりと感じます。
 もちろん私の育った家もそれなりの魅力と思い出があり、何よりも安らぎを与えてくれました。それでも、わたしの家にはミステリーが欠けている分、畏敬の念を呼び起こす祖父母の家にはかないません。

 聖書を紐解くと、ヘブライ人の長きにわたる歴史において、畏敬の館なるものが現れる時期がありました。エルサレム神殿と呼ばれました。聖書によるとその神殿は、ダビデの息子ソロモン王が紀元前10世紀に「わたしの名のために」建てたとこしえの家(サムエル記・下、7: 13)となります。時を経てそれは礼拝の中心地となりました。ところが、紀元前586/7年にバビロニアに滅ぼされます。多くのイスラエルの民は追放され流浪の民となります。詩編作者はこう嘆きます。「バビロンの流れのほとりに座り シオンを思って、わたしたちは泣いた。......どうして歌うことができようか 主のための歌を、異教の地で。」(137:1, 4)。それまで民のアイデンティティはその畏敬の館とつよく結びついていたのです。その家が失われたということです。

 幾十年を経て、多くの流浪の民はエルサレムに帰還します。そこに留まりつづけた民に加わり、共に神殿を再建します。この第二神殿こそは、イエスの両親が、「イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた」場所でもあります(ルカ2:46b)。ところが再び紀元七十年に、今度はローマ軍によって神殿が破壊されます。人々はひどく嘆き悲しみますが、その後、神殿の再建は叶いませんでした。このようにして流浪の間に、ユダヤの民はどこかほかに畏敬の念を呼び覚ますものを見つけようとしたのです。