2023年11月のコリーンのコーナー
京都カトリック信愛幼稚園 園舎

天国さながら②

 その日、後になってわたしは「エマオへの道」の物語について思いを致していました。これは言うなれば聖書版「カントリー・ロード」、「いなか道」の物語です。(この物語は『ルカによる福音書』の最後におかれていますが、実は内容からみると『使徒言行録』の始まりにあたります。即ちキリスト教信仰共同体が始まる物語として位置づけることができるのです。)

 わたし自身はエルサレムから歩いてやってくる二人の弟子たちに自らを重ね合わせていました。それは今まで友人と歩きながら話をすることで、安らぎと癒しのときを味わうという体験を幾度もしてきたからです。

 二人はイエスの十字架上の死に落胆し、希望が砕かれたことについて話しあっていました。すると、道すがらイエスが弟子たちの道行きに加わります。しかし、かれらはそれがイエスだとは気づきません。目的地に着こうとするところで、二人はこの「旅人」に、いっしょに留まるよう頼みます。そして、宿でともにパンを裂くとき、二人はやっとそれがイエスだとわかります。するとイエスは消えていなくなります。

 「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか。」弟子たちはこのようにもらします。(ルカ24・32)

 神の現存を経験することによって、弟子たちの人生のすべてが変わります。すぐさま踵をかえすと、エルサレムに向かいます。

 「天国とはいったいなんだろう」と、わたしは考えはじめました。天国とは、ふつう神とともに最終的に憩う目的地を描くときに使われる言葉です。しかし、天国の片鱗はこうした日々の瞬間に存在しており、神が認識されずとも人々との関わりに介入し、わたしの人生の歩みを見直すよう励ましてくれます。

 わたしと息子の間で「カントリー・ロード」のやりとりがあってから間もなく、わたしの友人とお茶をのんでいたときのことでした。「人は死んだ後でどこにいくと思う?・・」と何気なく訊かれることがありました。

 3歳の息子はあまり乗り気のない様子で答えます。「分からないよ。」そう言って、その会話は打ち切られました。
  その回答に死後の世界と天国を結びつけるものは何も見あたりません。生まれながらの好奇心にも火がつかず、もうそれ以上考えようともしませんでした。

コリーン・ダルトン

                            

附記:本稿はカトリック長野教会教会報(2008年5月号)に掲載された記事に加筆したものです。