園舎と園庭で遊ぶ園児たち
ある年の12月半ば、朝早く仕事に向かう途中、赤信号で止まったときのことでした。車の窓から何気なしに目をやると、店が立ち並ぶ狭い道が見えます。次第に目を覚ましつつある街の様子に出会いました。
そして、発車までのほんの数秒のうちに私の目を捉えたのは、街路樹に雪吊りが張られている姿でした。
その木がいつもと違う姿を見せていたので私の気を引いたということではありません。
街路樹を雪から護るための雪吊りは、竹の支柱と荒縄で、雪の重みにさらされた木の枝を支えるよう、毎年この時期に、しっかりと備えられています。
私がその日、その木に目と心を留めたのも、冬がいよいよ近づくという想いのなかで、なんともいえない心もとなさを感じていたからでしょう。そこから職場に向かう残り500メートルほどの道を運転する間、神は私たちをどうしてこんなに弱く脆いものに創られたのかと思いめぐらしていました。
そればかりでなく、イエスさまはどうして、人間らしく弱い弟子たちに、「食べ物や着るもののことで心配しないように」と教え諭すことができたのだろうと。
イエスさまはこうおっしゃっています。
空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。・・・・なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。(参 マタイ6・26~30)
幸運にも、私にはお腹を満たす食べ物も、体をまもる衣服も充分にあります。
それでも、この聖書の言葉には、いつもしっくりこないものを覚えます。
世界中でどれほどの人々が、食物や衣類など最低限必要なものを満たせずに苦しんでいるのだろう。その日、そう思い起こしていました。
親たちに対して、子どもたちの生活の保障について「心配しなくてもいい」と諭すのは、果たして正しいことなのだろうかと。
その一方、こうした問いを発することで、私自身もイエスが語りかけた「信仰の薄い者たち」の一人であることを顕わにしているのではないか、と少し気になってしまいます。
難しい教えを拒みながらも、他方でそれを受け容れたい。この両方を望むというなんとも居心地のよくない状態で収まっているのです。