京都カトリック信愛幼稚園
聖堂と玄関の聖母子像
わたしも若いころよりも、当然のことながら自分の未来について(もちろん年をとり死にゆくことを含めて)考えるようになって、かえって息子の乗り気のない答えから気づかされることがあります。
それは現在に生きることがどれだけ大切かということです。現在は未来の一端をなしています。天国とは人生の道行きが終着するところ、時空において超絶した場として考えるのではなく、そこに行きつくために辿る道のことです。すなわち、その道行きで経験する数々の出会いのことを指します。天国とは、むしろ日々の生活において、会話や食事をともにする空間と時に神を迎え入れるとき、どんなつながりにおいてもありうるのだと考えるようになりました。
英語版「カントリー・ロード」の歌詞では、歌い手は長年離れていた故郷をめざして車を走らせます。運転の途中で、彼は故郷の美しさに思いを馳せます。それは、「天国さながら」、また「母なる山」と高らかに謳いあげる故郷です。彼はまたいかに故郷の美しさが破壊されてきたかについて思いをいたすことで、この美しさをさらに盛り上げています。歌い手は故郷をめざして、「本来あるべき場所へ」と向かっています。故郷にむかう途上にあるのですが、彼は車を走らせながらも、すでにそこにいます。途上にありながら、その目的地の一部となっているのです。
このようにわたしの考える「天国」とは、そこに行きつくために辿る道のこと、すなわちその道行きで経験する数々の出会いのことを指し示しています。わたしたちが死んだ後でどうなるかはわからないにしても、それはわたしたちの人生の生き方と無関係ではありえません。
まるで「いなか道」(カントリー・ロード)をたどるこの旅人と同じように、わたしたちのいるところに神がおられると信じて生きるとき、すでに天国の片鱗を経験しています。また、日々の会話や共にする食事のただなかで、「わたしたちの心は燃えていた」という体験をすることができます。
人々とのかかわりのなかで神の現存に開かれて生きることができるならば、また「天国ってフーちゃんの学校みたいだね」という気づきに開かれているなら、わたしたちはすでにそこにいるのだと思うのです。
コリーン・ダルトン
附記:本稿はカトリック長野教会教会報(2008年5月号)に掲載された記事に加筆したものです。