園庭の「森の滑り台」とロザリオ作り(マリアの子ども会)
最近私はほぼ毎日、週日に散歩をしています。早い朝食をすませて家を出ると、一時間ほど歩きます。毎朝同じルーティーンで、同じルートをたどるのです。
生まれつき早起きの傾向を父から受けついでいると思います。父は家族が目をさます前にすでに何マイルも散歩をすませていたものです。
私と違うのは、父は日々新たなルートを楽しみにしていたことです。父の部屋の扉の裏側には、町とその周辺が載った大きな道路地図が貼られていて、そこに自分のルートを書きこんでいました。新たな近隣に乗りだし、新しい発見をすることに喜びを見出していました。父は2018年に亡くなりましたが、その地図は赤、青、緑で多くのルートが書き込まれていて、いまだに扉にテープで止められています。
父は、他界することで、尽きることのない新たな道が開けたのだと、母も私も信じています。
探索の楽しみはたしかに分かります。でも朝からあてどもなく彷徨うのはごめん願いたいというのが私の想いです。毎日同じルートをたどるので、右に行くのか左に折れるのか、散歩を短縮するのか延長するのか、そんな判断に煩わされません。用心のために目はしっかりと開けておきますが、歩道がどこで途切れるのか、どの曲がり角で犬と飼い主に挨拶するのかもちゃんとわきまえています。
どのルートを進もうかと考える代わりに、心に浮かんでくることに集中できるのです。誰かの庭がちょっと変わったなという気づき、苦労している授業の計画、若い頃の心暖まる思い出、または心にひっかかっていることなどに余地を残しておきます。
こうして私の日々の散歩は、ときどきではあっても、発見へと導いてくれるのです。
この朝の運動を祈りに例えるのは少しおこがましいかも知れません。
これを始めたのも実は日々の歩数かせぎのためでしたから。正直なところ、このルート設定も弱さに負けて近道しないようにするためだったのです!
それでも、祈りはその文句の暗記と、自由にさまよう思考とのバランスをとってくれていて、それと同じように、一人で散歩していても、心強く一人ぼっちに感じることはありません。