土崎教会聖堂とこども園玄関ホールの聖母子像
さて、聖書に再び思いをいたすと、ほかのことも見えてきました。故郷から遠く隔たったところへ旅を続けた人々が集う共同体の長きにわたる歴史です。これらはなじみのない土地で繁栄していった人々でした。しかも、このプランターの土よりもずっと限られた条件で。これらの人々はときになじみのない、居心地のよくない場所や、歓迎されない、または必要な栄養さえ不足している状況に、何らかの理由で「植えられた」人々です。
ウルからカナーンの地に向かうアブラハムとサラの旅はどうでしょう。その地でかれらは大いなる国家の始祖となったのです。ヨセフはエジプトへ奴隷として連れていかれる旅を経て、エジプトのファラオの家に召しかかえられるほどまでに上りつめました。ヘブライ人は四十年にわたって荒れ野でさまよい、ついには約束の地に入ります。ルツはモアブの地から義母ナオミの故郷まで旅をともにし、そこでダビデの曾祖母となるのです。預言者たちはしぶしぶ召し出されながらも、生活の場から民衆に苦言を呈し、王や為政者には逆らってまでも神の言葉を口にしました。バビロニアに散らされたイスラエル人は、その後捕囚としての生涯を送ります。そのうちイスラエルに戻った人々もおり、またバビロニアでしっかりと根を張った人々もいます。
かれらは方々に散らされ、ときに理想として夢見た土地に思いを馳せる境遇にあっても、着実に成長し、自分たちなりに花開いてゆきました。これらは困難や障害というチャレンジを受けながらも花開いたイスラエルの人々の物語、そのほんのいくつかにすぎません。
私たちも人生で、ときに自分でもよくわからない理由で、見知らぬ土地へ旅立つ選択をすることもあります。また自分がいつしか硬い土地に撒かれていると気づくこともあります。まさに聖書の物語が、今の私たちに語りかけてくれるのです。聖書にでてくる人々はいつも困難にありますが、希望にあふれています。よい土地に撒かれた種が、成長したり花開いたりする現象にはどこか神秘的なものがあります。
すばらしいことは、神の恵みとしか呼べないようなものによって、種が期せずして栄えていくというところです。それは、荒れ野に生えるサボテン、雪から芽吹くクロッカス、道のひび割れに種を落としながらも高く伸びてゆくヒマワリのようです。
叔母からもらったあの額縁の小さな絵はいまだに我が家の玄関に飾られています。かつて花を世話する人が描かれていないことに気づいたのですが、今ではそこには隠れながらも世話人の現存を感じるのです。もっと明るく輝くためにもっと懸命に生きなくちゃ、と感じるときもあります。私も何らかの小さな仕方で、周りの人々に希望のメッセージを送ることもできるはずです。
困難のときにも、神は私たち一人ひとりが花開き、何かすばらしいものに変わってゆくよう望んでおられると悟るとき、勇気づけられます。私たちの成長と変容を通して、神のみ国がより輝きに満ちたものとなるのです。私たちには身をもって神のみ国を育んでゆく務めがありますが、そればかりではなく、私たち自身も花開いてゆくよう呼ばれています。
ときに私も自分がなじみのない土地にいることに気づくことがあります。それでも、神が私のためによき願いをもっておられることを再認識すると、力づけられます。土地に根を張ろうとする私を、水と太陽の光をもって養って下さる人々に恵まれて、感謝の気持ちで満たされるのです。
コリーン・ダルトン
【附記】
今月の記事は、「カトリック長野教会報」(1998年10月号)に掲載されたものに加筆したものです。このタイトルをご覧になって、皆様よくご存知の『置かれた場所で咲きなさい』(シスター渡辺和子著 2012年出版)を思い出された方もおありでしょう。
聖書と結びつく意義深いテーマだと思います。