2024年10月のコリーンのコーナー

(岡山)ノートルダム清心女子大学附属幼稚園
園庭の遊具と御聖堂(おみどう)

『アペルイット・イリス』 Aperuit illis ②

「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いた」

『アペルイット・イリス』は教皇フランシスコが教会暦の第三主日(普通1月にあたりますが)を、「神のことばの主日」に制定した2019年の使徒的書簡です。

 「アペルイット・イリス」(Aperuit illis)という言葉ははラテン語で、もともと「かれはかれらに開かれた」という意味で、ルカ福音書の最後からとられたものです。弟子たちはエルサレムに集められ、空の墓について、またイエスがシモン(ペトロ)にそしてエマウスに向かう二人の弟子に現われたことについて話していました。すると、イエスがふたたび現われます。弟子たちは「喜びのあまりまだ信じられ」ない様子でいると、イエスは「聖書を悟らせるために彼らの心の目を開い」た(ルカ福音書24:45)、とあります。

 「ルカ福音書」はそれにつづく「使徒言行録」へとつながり、その説明を続けています。神の霊が弟子たちの集まる家に入られると、激しい風のように大きな音をたてた。すると、その風が「バベルの塔」の物語での混乱を覆すかのように、そこにいた人々は急に自分たちの言葉で話しはじめたのです。まもなく、あらゆる地域の人々が外に集まり、驚くことに、互いの言葉を理解しあったのです。酒に酔っているからだと言う人々もいましたが、ペトロ(シモン)は説明します。イエスが「約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです」(使徒言行録2:33bc)と。

 私たちみなに注がれるこの神の霊の賜は、アペルイット・イリス(aperuit illis)、即ち「神は人々の心を開かれ」ることをこれからもずっと果たしてゆくという約束のしるしです。神の霊は、私たちの心を開き、聖書の言葉を理解させるでしょう。そう私は信じています。  また私たちの方からも、自分たちが今ここにいる文脈において、一つひとつの聖書の箇所が意味をもちうるように、目を見開き、耳をすまして、注意をはらわなくてはなりません。私たちがいかなるコミュニケーションにおいても、いつもしていることと同じです。

 聖書に記された出来事や物語といった過去の文脈であっても、もちろん蔑ろにしてはなりません。くり返し聖書の頁を繰るのも、その言葉が私たちの現在の状況に力強く語りかけていると信ずるからです。

 聖書の言葉を読むことには、いつもわくわくします。読むたびに、期待していた以上に新しいことが照らし出されたり、またすこし違った観点が与えられたりするからです。まして長い年月をさかのぼる古の言葉となると、なおさらのことです。それでも、人々が共に集い、今の私たちの共同体の状況、その動きや音の響きなどを忠実に観察しながら聖書を読むときに、この福音の「よき知らせ」が新たに示されてくるのです。そう私は信じます。

 教皇フランシスコが祝う紀元四世紀の聖エフレムの言葉にはまさに希望が満ちています。

 「主は豊かな美で ご自分のことばを飾られた。ことばを研究する人々が、おのおの自分の好むものを観想できるためである」。(Aperuit Illis 2番)
 *参考 https://www.cbcj.catholic.jp/2020/01/24/20019/ カトリック中央協議会