2024年04月のコリーンのコーナー

(東京)マダレナ・カノッサ幼稚園
園舎と 修道院のルルド

ふりかえる ①

 学生であろうが社会人であろうが、どんな活動にかかわっていようが、3月というのはふりかえりの月です。右肩越しに、また左肩越しにくりかえしふりかえり、ここ一年で慣れ親しんだ場や役割を担った自分を見なおそうとします。それからふたたび前を向きなおって、感情の揺らぎを感じながらも、あらゆる変化に向きあい、4月に備えます。

 娘がまだ小学生の頃、このどっちつかずの安定しない時期について話していたのを思い出します。毎年先生がたに、「あなたたちは4月からはもう違うんだからしっかりしなさい」と念をおされたと言います。

 幼稚園の年長さんのとき「あなたたちはもうすぐしたら幼稚園生ではない」と言われます。じきに小学生になるんだから、と。翌年になるとまた、もう1年生じゃないんだから、と言われます。じきに2年生なのよと。また3年生になる前には、あと2~3週間で低学年の最上級生になるんだと釘を刺されます。

 娘は自分が見つけたこのパターンを強調すると同時に、「ほんとかなー」と首をかしげます。

 「そんなに変わるわけもないんだけどな」と、娘は言いきります。「先生たちは、私たちが大きくなったと感じてほしいだけなんだよ」。自分たちが変わったと同時に、そんなに変わってないとも感じているようです。

 最近、米国の作家サンドラ·シスネロスの「11歳」という短編小説を読み返しました。レイチェルという女の子が一人称で、11回目の誕生日に、踏んだり蹴ったりの朝を学校で迎える様子を語ります。物語のはじまりから、レイチェルはその心の内を明かします。

 大人たちは誕生日のことなんか、まったくわかっちゃいないんだから。
 11歳のとき、あなたは10歳でもあるし、9歳でもあるってこと、8歳でもあるし、7歳、6歳でもあるし、5歳でも4歳でも、3歳でも、2歳でも、また1歳でもあるってことを、ぜったいに教えてくれないんだから。朝、目をさまして11回目の誕生日を迎えると、11歳になったと自覚してほしいみたいだけど、そんなこと起こらない。

 レイチェルは続けざまに、年を重ねるのはオニオン(玉葱)のよう、樹木のようだと例えます。あらたな実の層や年輪を重ねるんだけど、古い層や年輪もそのままちゃんと残ってるのだと言います。さらに増えたものはそのままうちに深く埋もれるんだ、と。あたかもオニオンが成長して新たな実の層を増してゆくように。または、それが皮下にたまるのかも知れない。まるで木の樹皮のうち側で、新たな木が成長するように。年をとるっていうのは、古きものを脱ぎ捨てて、新たにされるってことじゃない。むしろ、それはもっとふくれあがっていくことだ、と。

コリーン・ダルトン