2024年01月のコリーンのコーナー

大阪信愛学院幼稚園 園舎玄関とお聖堂みどう

「ハンドルとミミタブ」①

 「私たちにはハンドルがあり、あなたたちにはミミタブがある。」
  いつか文化的違いについてなにか書くときに使えそうだ!
  これは、そう長年考えつづけてきたキャッチフレーズなのですが、日本に来て早々にでくわした体験から生まれたフレーズでした。

 あるとき夫が熱いお茶を運んでいました。食卓に湯呑茶碗をおくや否や、いきなり耳たぶをつかむではないですか。「アチチ!」
  この予期せぬ動作は生まれて初めて目にするもので、脈絡もわからずに奇妙でもあり、正直滑稽に映りました。
  「いったい、なにしてるの?」と訊きました。
  「え、知らないの?」その反応は驚きにみちたもので、信じれない、という感じでした。
  「なにを?」と訊くと、「ミミタブって、体の一番冷たいところだって」と。
  「あー。私たちのマグカップにはふつう取っ手(ハンドル)がついているから。」

 そのとき、この「ハンドルとミミタブ」というタイトルがすぐに思いついたのです。この「マグカップのハンドル」と「ミミタブ」の会話は、その後長いあいだ頭のどこかにうろうろしていました。その後も、文化的違いに気づいたり、そんな場面に出くわしたりする度に、この出来事が甦ってくるのです。そんな時、わたしは思わず微笑みます。そして、マグカップに「ハンドル」を付けていることも、湯呑み茶碗の時には「耳たぶ」をうまく利用するのも、両方とも熱いものを運んだり冷やしたりするときに対処する、よい方法だと改めて気づくのです。

 たしかにどんな問題や状況にも正しい答が一つであるとは限りません。これは、日本で25年のあいだ暮らしてきた今の自分にはよくわかってきています。

 それでも最近、このキャッチフレーズ「ハンドルとミミタブ」にこめられたイメージは、文化をこえて、さらに新しい意味あいを帯びるようになりはじめています。マグカップの「取っ手」と「耳たぶ」とを気の利いた対処法のシンボルとして理解するよりも、もっとその背後にある考え方に焦点を当てるようになってきました。

 人生において、私たち一人一人には「取っ手」を創りあげる時と、また「耳たぶ」にしがみつく時とがあるのだと、私には思えるのです。

 わたしはよくコーヒーを飲みますので、家のキャビネットにはマグカップが気づいてくれとばかりに、ひしめき合っています。それぞれ形も大きさも異なり、たいていは場所をとるものばかりです。うまく収まることなど、まずありません。マグカップは威張って肘を突き出すようにしていて、あやまる気配すら見せません。特に、丸みを帯びたなで肩の湯呑茶碗と並んだときに、マグカップはそんなオーラを放っています。

 おかしな話ですが、自分もときにマグカップのようにふるまってきたかもしれないな、と思いあたります。
 たとえば、親元を離れて独立した若い女性として、また忙しい母親や教師として、ときに大胆にそして独創的に対応することができました。何もないところに、いわば効果てきめんの手段となる「取っ手」を創りあげてきたのです。ふりかえるならば、こうした「取っ手」のような解決方法には大方満足しています。それでも場合によって、わたしの取り入れた新たな手法もすべてうまくいったわけではありません。それらはただ場所をとるばかりだったり、ときには人の場所を奪ってしまったりすることもあります。外に答えを探し求めることで、他の人たちを戸棚の隅へ追いやることもあるし、または隅っこに押し込んでしまうこともあるのです。

コリーン・ダルトン