聖母子像の前で・御聖堂(おみどう)でお祈りします
そんな思いでいた日、あとになって、「マタイ福音書」の第6章を読み直しました。「山上の説教」(5章~7章)と呼ばれる箇所の一部です。
この「山上の説教」は、もちろんイエスの教えなのですが、これまでしばしば、司祭の説教や、様々な人の演説、また文学などでも、繰り返し引用されてきた多くの箇所(「野に咲く花を見なさい」のような)が詰まっています。
この第6章で、何をしてはいけないかについて多くの言葉が費やされたあと、章の終りに、何をすべきかについて結論づけた文章を見つけたのです。
「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6: 33)。
「神の国を求めなさい」という教えについて考えても、手のつけようもなく、とりつく島もないといった思いだけが残されます。特にマタイ福音書には、「神の国」とは何かというはっきりした設計図も、またそこに至るまでの道を示した細かな行程表もないからです。
それでも、「山上の説教」のなかに、単純にしてなじみ深い「黄金律」を見つけることができます。
「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」(7:12) 。
この教えは、「神の国」について言われた教えと同等のものではないにしても、神の義をめざすためのよき第一歩にはなりそうです。
さらに、この「黄金律」に専念することで、「野に咲く花を見なさい」という教え、「先のことは心配しすぎないようにしなさい」という諭しから生まれる気まずさを和らげてくれる効果もあります。
神は空の鳥や野に咲く花に、そして私たちのことにも、心をかけてくださいます。
また、私たち人間は、神の似姿として創られたように、自然を世話するものでもあります。多くの人は鳥に餌をやり、庭の植物に水をやり、また必要でないときでもペットの犬にコートを着せてあげることもあります。さらに雪国では、樹木に「雪吊り」を施します。
私たちはたしかに弱く脆いものかもしれません。それでも知性と思いやりをもって、自らが欲するものを他の人々と分かち合うことができます。これが完璧に安全を保障するというわけではありませんが、そのほかのすべての基盤となるものです。
一月は、暦を開いてこの先一年の見通しを立てるのに相応しい時です。
それでも、今年は「野に咲く花を見なさい」との教えに従い、先のことをあまり心配しないように努めたいです。そうすれば、おそらく「今」与えられた多くの機会を、いただいたものに応じて他に与え、必要に応じて受けとるという機会を、うまく活用できるようになるでしょう。