2024年03月のコリーンのコーナー

秋田カトリック学園 土崎カトリックこども園 園舎

植えられたところで、花咲かせなさい ①

 日本に移って間もなく、大好きな叔母が色とりどりの明るい花の絵を送ってきました。それは小さな木製の額縁に納まっています。その絵には家の壁と窓枠が描かれていて、窓際のプランターに花が明るく咲き誇っています。そして、絵の下には一行、文が添えられています。
 「植えられたところで、花咲かせなさい。」

 これはおそらく16世紀から伝わる言葉で、現代の芸術家や作家を通して、私たちにも親しみのあるものとなっています。素敵な引用で、叔母が私を想って選んでくれた贈り物だと感じました。地球の裏側であらたな生活をはじめようとする姪に送ったギフトです。とても愛されていると感じ、大きな励ましとなりました。

 この思いやりのある贈り物を受け取り、喜びを味わっていると、私はいつしか聖書にある「種まきと成長」の物語について思いをいたしていました。そしてイエスの譬え話を思い出したのです。

 イエスはよく譬え話で、聴く人々になじみのある農耕のイメージを使うことがあります。私は伝統的に「種蒔きの譬え」と呼ばれてきた話(参照:マルコ4・1~20)を辿っていたのです。農夫が種を蒔き、種は四種類の異なる土地、すなわち、踏み固められた道端、石ころだらけのゴツゴツした地面、茨の地、そして良い土地に落ちます。

 福音書では、イエスがその譬え話を自ら説明しています。農夫は神の言葉を撒いている。そしてそれが花開き実を結ぶかどうかは、それが撒かれた土地の質にかかっているのだと。この解釈では、種と土の運命がともに混じり合い、両者を分けるのは少しむずかしくなります。それでも、御言葉が私たちの上に落ちたとき、どれだけうまくそれを育むことができるかをふりかえるよう問われています。

 少しずつ気づきはじめたのです。額縁の絵が示しているのは、実際には「種蒔きの譬え」とはまったく異なるものであったと。この絵ではプランターの花々を世話する人が描かれていませんし、ほのめかされてもいないのです。絵を鑑賞する人は、土に譬えられているのではなく、むしろこれから咲き誇ってゆくよう励まされる種の方になぞらえています。人が地理的に、また状況において異なる場所に散らされたものとして描かれます。種はぞんざいに撒かれていたとか、おろそかにされてきたというわけではありません。むしろこの小さなプランターで花々はそうとう手間ひまかけなければ咲くことはできなかったでしょう。

 それでも、この絵のイメージは私に問い直しを迫るものでした。もし植物にとってその土壌が馴染みなく、さらにそこに深く根差していないとしたら、それはいったいどうやって成長していくことができるのだろうと。実際のところ、この窓際の小さなプランターはというと、花の成長していく可能性を制限していように見えます。それでも花々は美しく咲き誇っているのです。

コリーン・ダルトン

【附記】

 今月の記事は、「カトリック長野教会報」(1998年10月号)に掲載されたものに加筆したものです。このタイトルをご覧になって、皆様よくご存知の『置かれた場所で咲きなさい』(シスター渡辺和子著 2012年出版)を思い出された方もおありでしょう。
 聖書と結びつく意義深いテーマだと思います。