2024年10月のコリーンのコーナー

(岡山)ノートルダム清心女子大学附属幼稚園
玄関ホールのオブジェと絵本の部屋

『アペルイット・イリス』 Aperuit illis ①

「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いた」

 「バベルの塔」は創世記のはじまりの一連の神話を締めくくる物語です。この物語はなぜ人間が多くの言語を話すのかについて一つの説明を示しますが、同時に共通言語のもつ力を照らし出しています。
 それでも、現実の生活では、同じ言語を話していても、共有しているはずの"ことば"がいつもコミュニケーションを滑らかにしているわけではありません。言葉は確かに力強いのですが、コミュニケーションを成り立たせるためにはそれで充分ではないのです。さらに何かが必要となります。

 たいてい子ども達はなんなく、また喜んでコミュニケーションをすることを学んでいきます。
 わたしの娘のはじめの言葉は、ふつうの基本的な言葉をとびこえて、「はまっちゃった」というものでした。娘はよく木製の列車の玩具で遊んでいましたが、その機関車のてっぺんに穴が空いていて、そこに煙突をはめるという仕掛けになっていました。それがうまく入らないと、煙突が「はまって」とれなくなってしまいます。これが起こると、娘は注意を促すように「はまった、はまった」と言い、私を見て、どうにかしてという眼差しを向けてきます。
 娘が助けを求めていることを、私はすぐに察します。正確に言うならば、その訴えの意味するものは一つの形容詞から生まれるわけではなくて、言葉に伴う心配そうな声のトーンと、お願いするような眼差し、そして娘の状況を私が見抜くという組み合わせで、成り立っているのです。

 私たちの伝えたい思いというのは、言葉が示す以上のものを含んでいて、また言葉が指し示すこととは異なることもよくあります。
 たとえば、私の子どもたちがショッピングの折りに何かを買いたいものがあるときに、私が「たぶんね」と答えると、それは普通ノーという意味だと理解するのに、それほど時間がかかりませんでした。子どもたちが実際に、「その『たぶんね』ってどういう意味?」と正確を期して訊いてきたことがあったのを覚えています。そうした場合にも、子どもたちはおそらく、声のトーン、顔の表情、そして文脈を組み合わせながらそのメッセージを読みといていたのでしょう。

 まして文字に表現された言葉となると、さらに厄介になります。スマートフォンをもつ人ならみな、このコミュニケーション上の誤解を経験していることでしょう。短い文のやりとりや、絵文字を使うときであっても、誤解が起こるのですから!
 ましてや長い文章となると、詳しい情報や説明を含んでいるにもかかわらず、はっきりと伝わらないことがよくあるのです。

 ここまで長々と書いてきましたが、実はこれも最近わたしの心をよぎってきた考えを紹介するためのイントロなのです。
 聖書をどうしたら読むことができるだろうか、という課題です。文脈から引き離された古代の言葉を、どうしたら間違いなく読みとることができるのでしょうか。

 「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開い〔た〕」Aperuit illis(ルカ福音書24: 45)。
 この言葉に、聖書を読み解く鍵と望みとがある。そう私は思うのです。