2024年01月のコリーンのコーナー

大阪信愛学院幼稚園 外遊びの園児と聖母子像

「ハンドルとミミタブ」②

 それにくらべて人の「耳たぶ」はマグカップの「取っ手」とはかなり異なります。私たちといつも離れずにともにいます。人からスペースを奪いとることもしません。ときに隠れています。ときに飾りつけられることもあります。それでも、耳たぶはいつも私たちの一部です。うまく使おうとすれば、大きな働きをします。

 わたしも社会に出たばかりの若い女性として新たな環境や状況で働いたり、母親としてまた教員として人々を助けたりしていたときに、陰に隠れてしまうこともありました。そこから、身のまわりでおきていることがもう少し明らかになったり、また時間をかけてふりかえり、理解できるようになったりすることもあります。何かを大胆に試してみることで、いつも物事が解決するというわけではありません。むしろ穏やかな気づきこそが解決にいたることがよくあるのです。
 それでも、ときにわたしがキャビネットのなかの湯呑茶碗のようにたたずむのは、目立ちたくないという恐れから来ていたこともあるとわかっています。

 私たちは人生でなにかと正しい答を見つけだそうとします。ところが、どんな文化でも、その格言を眺めてみるならば、相反するアドバイスを提供したりする例によく出会います。人は素早く行動するべきか、それとも立ち止まって熟考するべきか。言葉を重んずるべきか、もっと行為に価値を置くべきか、などです。

 聖書には「知恵文学」のテキストがあり、人生についての教訓や励ましがたくさん載っています。例えば、いかに高潔に生きるか、善き人生たらしめるものは何か、どうして人間は苦難を受けるのかなどについてです。旧約聖書のなかでさほど知られていない書物に、よく知られた言葉が載っています。「何事にも時があり天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時 植える時、植えたものを抜く時 殺す時、癒す時 破壊する時、建てる時」(「コヘレトの言葉」3章1節~2節)。こうした箇所は、真理はときにフラストレーションをおこすものだというメッセージを送っています。正しい答が状況によって異なってくるからです。

 2024年、この新たな年を迎えても、やはり夫が耳たぶをつかむ姿を思いだして微笑んでいたいと願ってます。また、自分にもまわりの人々にとっても、「取っ手」の機会と、「ミミタブ」の機会とがあることにもっと気づけるようになりたいと思います。そして、すべての人が日々の生活で、「取っ手」を創りだすことによって、また「ミミタブ」にしがみつくことで、直面する困難や課題に応えてゆく力が与えられるよう願います。
 さらに、私たちが毎日出会う局面で、どちらの対応の仕方が人々との関わりを深めてくれるのか、それを見極める能力をいただけるようお祈りしたいと思います。

コリーン・ダルトン