2024年08月のコリーンのコーナー
(愛知)名古屋カトリック学園
サンタマリア幼稚園「お別れ会」と「玉ねぎの収穫」

創造主のより完全なるイメージに近づく②

 「箴言」の書は、よき人生とそれをいかに見つけるかについてのアドヴァイスを集めた語録です。「ヨブ記」や「コヘレトの言葉」とともに、「知恵文学」のもとに括られることがよくあります。この文学では知恵が女性の形で登場します。知恵は自らを神の初めの作品として捉え、証言者、伴侶として神の創造の業を語ります。

 

わたしはそこにいた 主が天をその位置に備え ......
  この原始の海に境界を定め 水が岸を越えないようにし 大地の基を定められたとき。 御もとにあって、わたしは巧みな者となり 日々、主を楽しませる者となって 絶えず主の御前で楽を奏し 主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し 人の子らと共に楽しむ。(箴言8・27a、29-31)

 「知恵なる女性」は、「主が天をその位置に備え」たとき、「わたしはそこにいた」と語るほど、少し自慢屋さんのところがあるようです。でも、この愉快な「創造」の説明には、「創世記」版の創造物語にはなかった視点が導入されています。聖書学者のローランド·マーフィーが強調する点は、「箴言」で描かれる創造は過去の出来事に留まらず、現在も進行中の「人間経験の舞台」でもあるということです。知恵なる女性は、ここにおいてそして知恵文学を通して、神の意向に添いながらも、私たちのあいだで十全に生きているのです。そして、この女性は自分とともに歩むよう私たちに呼びかけています。

 「創造」物語は決して歴史に関するものではありません。人間の問いと価値を表現するものです。私たちは創世記をとおして、何千年も前から人間が力ある神に願い、祈っていたことを知ります。また自らに似て地を歩きまわり、人間の喘ぎ苦しむ様子をご存じである神をさがし求めていたことを知ります。今日においても、私たちはまさに力と憐れみに大きな価値をおいて生きていくことでしょう。

 他方で、私たちには「箴言」が教えてくれる、神のまた別の特性について大切な気づきが必要なのです。その神は「創造」の活動に単独で立ちむかうのではなく、「知恵」とともに私たちの世界を構想し、その美しさのただなかにあって喜ぶのです。現在、人間の権力闘争が人々の命を破壊し、人間の強欲が私たちの自然環境を脅かしているとき、この第三の物語、協働と喜びのお話に現れる「知恵」を組み込む必要があるのです。それは私たちが祈る創造主のより完全なるイメージを懐くことができるようになるためです。