2024年09月のコリーンのコーナー
(京都)精華聖マリア幼稚園
園庭と園舎

ふたたび、顔と顔とをあわせて ①

 2022年に多くの共同体は「顔と顔とを突き合わせる」対面に戻ろうと移行中のときでした。学校や会社では、徐々に教室やオフィスで通常の業務に戻ろうとしていました。
 私にとっても、夫と二人で「空(から)の巣を暖める鳥」となり、22年の歳月を経て再び「顔と顔とを突き合わせる」の生活に戻っていたのです。

 私たちが結婚したとき、小さなテーブルに折り畳みの椅子二脚で、互いの顔を突き合わせて静かに食事を楽しんでいました。家族が増えていくと、もう少し大きめのテーブルを買いました。二脚の椅子とベンチがついています。当初、子どもたちはそのベンチが大好きで、夫とわたしが椅子に配属されました。肩を並べて座ることになります。大きな違いは、当時は食事中が忙しく、だいたいは注意がそがれる"楽しい出来事"に満ちていたことです。みなが我先にと一日の出来事を話そうとするなかで、急に「新しいノートを買わなくちゃ」とか「親のハンコが必要なんだけど」といったリクエストが入りこみます。初めの頃とは違って、私たちはさほど互いに注意を注ぐことはできませんでした。
 そして、いま私たち二人が取り残されました。「顔と顔とを突き合わせる」ときへと逆戻りです。

 サンテグジュペリのよく知られた言葉があります。「愛とは互いを見つめ合うことではなく、......」。 それでもこの最近の新しい眺めも悪くないと感じているところなのです。
 そうであったとしても、移行期にいることは間違いありません。その言葉の定義には、喪失と混乱とが含まれるようです。

 空の巣を暖める、退職、老齢、これらは現代人がみな経験することです。今日、先祖たちよりも健康で長生きする時代になっています。
 近年、こうした問い直しに対して、さまざまな宗教ではどのように祈りをもってとり組んだらいいかについて、ガイダンスを与えています。他方で、聖書はこれといった個人的な葛藤や苦難にたいして答えているわけではありません。これには明らかな理由がいくつかあります。しかしそれは、聖書が移行期という課題について、幾世代にもわたって信仰共同体の変容を物語ることなく、押し黙っていたというわけではありません。

 私たちは新約聖書で一つの主要な移行期について、断片的にですが目にします。それは人間イエスの弟子たちの"ユダヤ人共同体"が、イエスの死後 "キリスト教徒の共同体"へと変わっていくという移行です。
 今日(こんにち)イースターと呼ばれる復活節の物語は、喜びと祝いについて語るものですが、当初弟子たちの共同体でさえ産みの苦しみに直面していたのです。それがまったく新しい始まりへといざなうこととなるのです。