2023年10月28日の聖書の言葉

10月29日 年間第30主日 マタイ22・34-40

 そのとき、ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

み言葉の分かち合い

み言葉の分かち合い

 ユダヤ教の伝統によれば、律法には、守るべき戒めが613あるそうです(昔ある神父様から「ムイミ(613)」と教わりました)。それらの内、「否定的な戒め」365、肯定的な戒め248なのだそうです。本日の福音書では「律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた」と書かれています。イエスに、これらの中から1つを挙げさせて、全ての掟の重要性を理解していないことを批判しようと企んだのです。

 イエスは「申命記」と「レビ記」から1つずつ掟を挙げて、「律法全体(The whole Law of Moses)と預言者(The teachings of the prophets)は、この二つの掟に基づいている」と言われました。同じ表現が、山上の説教の中の「求めなさい。そうすれば与えられる」に続く「黄金律」と呼ばれている「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」(マタイ7・12)に見られます。
 「律法」は「モーセ五書」(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)を、「預言者」は「預言書」を指しています。聖書には、他に「諸書」と呼ばれる書もありますが、この二つで「旧約聖書全体」を指しているのです。

 「申命記」(申:再び、命:律法)は、約束の地に到着する直前に、モーセが遺言のように語ったもので、ユダヤ人が毎日の祈りの中で唱える信仰告白の言葉です。6章4、5節は、「聞け、イスラエルよ(=シェマー、イスラエル)」から始まる祈りで、「我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と続きます。
 「レビ記」19章18節には「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である」と記されています。
 マタイ福音書では「第二も、これと同じように重要である」と記されています(新共同訳)。しかし、原文は「ホモイア=似ている」という単語だけが使われています。したがって、「重要度が似ている」という解釈以外に、「2つの掟の内容が似ている」と捉えることもできるのです。つまり「神を愛する」ことと「隣人を愛する」ことが同じことだと考えることもできるのです。
 並行箇所のルカ福音書10章では、「では、わたしの隣人とは誰ですか」と問う律法の専門家に対して、イエスは「善いサマリア人」のたとえ話をされて、困っている人の隣人となるよう諭されています。

 「神を愛する」を縦糸、「人を愛する」を横糸と考えて、この両者がそろって美しい織物ができると表現した人がいます。また「神を愛する」を絵画、その絵に「人を愛する」が加わることで、絵に描いた餅が立体的なものになると表現した人もいます。
 最も重要な掟を生き抜かれたイエス・キリストのご生涯をお手本として、日々を過ごしていくことができますように。 アーメン。

*キーワード:愛する
 「愛する」は、好き嫌いの「好き」とは異なるものです。ギリシア語には「愛する」という単語が4つ(※)あります。
 聖書の語る「愛する」は、それらの中の「アガペー αγάπη」(ラテン語「カリタス」caritas、英語「チャリティ」charity)が相当します。アガペーとは、たとえ感情的に嫌いであったとしても、神の似姿として創造されたかけがえのない人として「大切にする」、その人の幸せを願い、その実現のために努力することなのです。

(参考)キング牧師の講演『われらに投票権を与えよ』(1957年)の一部
~~われわれは憎悪に対しては愛を対決させなければならない。肉体的暴力に対しては魂の力を対決させなければならない。時の流れを超えて今も叫ぶ声が聞こえる。「あなたの敵を愛し、あなたを呪う者を祝福せよ。あなたをののしる者のために祈れ(マタイ5・44)。
 今、私は感傷的で浅薄な愛について語っているのではない。私は美的でロマンティックな愛である「エロス」について語っているのではない。また私は個人的友人どうしの親近感情である「フィリア」について語っているのでもない。
 私が語っているのは「アガペー」(無償の愛)についてである。私は人々の心の中にある神の愛について語っているのである。私が語っているのは、一方でその人がなす悪事を憎みつつも、悪事をなす人を愛するように促す愛についてである。われわれはそのような愛を実行しなければならない。~~
 ※あと1つは「ストルゲー」(親子や兄弟間の家族愛)

参考:(第一朗読:出エジプト記22・20-26)・(第二朗読:一テサロニケ1・5c-10)


2023年10月21日の聖書の言葉

10月22日 年間第29主日 マタイ22・15-21

 そのとき、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」

み言葉の分かち合い

み言葉の分かち合い

 皇帝への税金
 エルサレム神殿の境内で、イエスが祭司長やファリサイ派、長老たちを批判されたことによって、対立は決定的なものとなりました。彼らは、敵意をもってイエスを罠にはめようと画策したのです。

 「ファリサイ派」は律法学者たちのエリート集団です。律法を厳格に守ろうとする熱心なユダヤ教徒であって、自分たちは律法を知らない人たちとは別格だと自負して、自らを分離(=ファリサイ)して清さを誇っていました。皇帝税には反対(でも、しぶしぶ払っていました)の立場をとっています。
 「ヘロデ党」は政治的なグループであり、ガリラヤ領主のヘロデ・アンティパス(ヘロデ大王の子)の支持者集団です。ローマ皇帝の傀儡的な存在であり、皇帝税の容認派です。
 両者は仲の悪い関係でした。しかし、民衆の圧倒的な支持を得ているイエスを邪魔に思う点で一致し、力を合わせてイエスを罠にはめようと画策したのです。
 イエスがローマ皇帝への納税が律法に「適っている」と答えたならば、ローマの手先と見なされて、群衆の信頼を失わせることができます。もし「適っていない」と答えたならば、ローマへの反逆罪で捕らえることができるという、完璧な罠を仕掛けたのです。

 罠を見抜いたイエスは、「偽善者たち」と呼びかけて、ローマへの納税に使用するデナリオン銀貨を持って来させます。「誰の肖像と銘か」と逆に彼らに問いかけて「皇帝の物は皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われました。3福音書(マタイ、マルコ、ルカ)とも、罠を仕掛けた者たちが、このイエスの答えを聞いて「驚いた」と伝えています。

*キーワード1:皇帝のものは皇帝に返しなさい
 イエスは、税金を納めなくてよいとは言われませんでした。イエスに従うことは、この世のものを捨て去るということではないと言われたのです。来週(年間第30主日)の福音書の中で、最も大切な掟として「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」「隣人を自分のように愛しなさい」とイエスは言われます(マタイ22・37-39)。
 富の不平等や弱い立場に追いやられている人たちに無関心でいることなく、「隣人を愛する」ために、私たちはそれぞれの置かれた場所で、なすべきことをするようにと、イエスは言われたのだと思います。

*キーワード2:神のものは神に返しなさい
 「返す」という言葉から、「借りている」ものであることが明らかになります。私たちは神様から、無償で多くの賜物をいただいて生きています。どうすれば神にお返しすることができるのでしょうか?
 隆盛を極めたローマ帝国も滅び去ったように、この世のものはいつか消え去ります。しかし「神のもの」という刻印は消えることがありません。「神のものは神に返しなさい」との御言葉を実行できるよう心掛けたいと思っています。
 私たちには「神の似姿」が刻まれていることを忘れることなく、神のものとして生きていくことができますように。

*キーワード3:肖像、銘
 「肖像」:ギリシア語で「エイコーン」、「イコン」(特に東方教会で多く見られる、聖像。フレスコ画やモザイク画など)の語源です。「皇帝のもの」を、納税に使われるローマ皇帝の肖像(エイコーン=似姿)とすると、「神のもの」とは、神の似姿(エイコーン)=「人間」を指すことになります。「神に返す」とは、神の似姿として想像された人間として生きていくことを指すことになります。
 「銘」:「デナリオン銀貨」は1円玉とほぼ同じ大きさで、表面に皇帝ティベリウスの胸像が浮き彫りにされています。そして「神的アウグストゥスの子、皇帝にして最高神官なるアウグストゥス・ティベリウス」という刻銘がなされています。

参考:(第一朗読:イザヤ45・1、4-6)・(第二朗読:一テサロニケ1・1-5b)


2023年10月14日の聖書の言葉

10月15日 年間第28主日 マタイ22・1-14

 そのとき、イエスは祭司長や民の長老たちにたとえを用いて語られた。「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。」
 《「王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」》

み言葉の分かち合い

み言葉の分かち合い

 本日の「婚宴のたとえ」は、「二人の息子のたとえ」、「ぶどう園と農夫のたとえ」に続き、エルサレム神殿の境内で、祭司長やファリサイ派、長老たちに向けて語られたものです。イエスはこの指導者たちに「神の愛の呼びかけを真剣に受け止めて、悔い改めなさい」と訴えかけられたのです。
 「ぶどう園と農夫のたとえ」では「神の国はあなたたち(祭司長や長老たち)から取り上げられる」とのイエスの言葉に怒り、「イエスを捕らえようとしたが群衆を恐れた」(マタイ21・46)と記されています。そんな彼等にイエスは引き続き、第3のたとえを話されました。

 「婚宴に招かれていた人々が来ようとしなかった」のはなぜなのでしょうか? マタイ福音書では「畑や商売に出かけた」と記されています。並行箇所のルカ福音書では、畑の他に、「牛を買ったので調べに行く」「妻を迎えたばかりで行くことができない」(14・18-20)と、断った理由が書かれています。共通していることは、婚宴よりも優先させるものがあったということです。招かれたことに喜びを感じていなかったことが原因であることが分かります。招待を受けてから婚宴当日まで、時間があったはずです。それなのに、仕事の調整をする気持ちもなく、王の招待を無視してきた、すなわち、この人々は、王を王として認めていなかったことがわかります。

 「見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった」ことは、年間第16主日の「(良い麦と毒麦を)刈り入れまで両方とも育つままにしておきなさい」(マタイ13・30)の御言葉を連想させるものです。最終的に、家来たちが連れてきた大勢の善人や悪人たちは、一人を除いて皆、招待客の仲間に迎え入れられたのです。
 ところで、大通りにいて、たまたま連れて来られたうちの一人が、礼服を着ていないことをとがめられて「手足を縛られて暗闇に放り出された」のはなぜなのでしょうか? よく読んでみると、王は最初に「友よ」と、フレンドリーに呼び掛けていることに気づきます。そして礼服を着ていない理由を尋ねられて「黙っていた」とも記されています。はっきりと断言はできませんが、王は宴席に招き入れたくて理由を尋ねたのだと思います。ただ一人礼服を着ていなかったこと、さらに返答しなかったことから考えて、礼服を着るチャンスがあったのに着ることを拒否した?あるいは、そもそも婚宴に来たくなかった?のではないでしょうか。

 「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」(ガラテア3・27)
 イエスは私たちのために宴席を設けて「用意はできました。さあ、婚宴においでください」と招いてくださっています。王に招かれたことへの感謝の気持ちを忘れることなく、婚宴で礼服を着るように、キリストの愛の教えを身にまとうことができますように。 アーメン。

*キーワード:王子のための婚宴
 イエスを「花婿」に譬える場面は、マタイ9章14-15節に見られます。
 「そのころ、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、『わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか』と言った。イエスは言われた。『花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる』」
 ファリサイ派の人たちだけでなく、洗者ヨハネの仲間たちも、イエスが、罪人とされた人たちと会食すること、さらに断食をしないことに疑問を抱いていたことがうかがえます。イエスは硬直した習慣や価値観を超えて、新しい教えを説かれました。新しい布切れを古い服に次ぎあてると破れてしまう、新しいぶどう酒は新しい革袋に入れなければならないとイエスは話されます(同9・16-17)。
 柔軟な心をもってイエスの御言葉に心を開いて生きていくことができますように。

参考:(第一朗読:イザヤ25・6-10a)・(第二朗読:フィリピ4・12-14、19-20)


2023年10月07日の聖書の言葉

10月8日 年間第27主日 マタイ21・33-43

 そのとき、イエスは祭司長や民の長老たちに言われた。「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。

 さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。
 『家を建てる者の捨てた石、
 これが隅の親石となった。
 これは、主がなさったことで、
 わたしたちの目には不思議に見える。』
だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。」

み言葉の分かち合い

み言葉の分かち合い

 「ぶどう園と農夫」のたとえ
 エルサレムの神殿に入られたイエスは、エルサレムの指導者たちと対決します。本日の「ぶどう園と農夫」のたとえ話の配役は次の通りです。
・「主人」=「神様」
・「主人が送った僕たち」=「預言者たち」
・「農夫たち」=「エルサレムの指導者たち」
・「息子」=「イエス・キリスト」

 『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった』は旧約聖書(詩編118・2)の引用です。
 エジプトで奴隷状態であったイスラエルの民は、神の選びと導きによって解放されて、真の神の民とされました。羊飼いの少年に過ぎなかった少年ダビデは、神の導きによってイスラエルの王に選ばれました。ともに主がなさったことで、人の目には不思議に見えることでした。
 そしてナザレのイエスが登場します。エルサレムの指導者たちは、イエスなど役に立たない石として城外に捨てようとしますが、神はイエスを最も重要な親石であるとして、その上に新たな家を建てようとなさるのです。こうして神の国はユダヤの指導者たちから取り上げられて、異邦人への宣教という神の救いの御計画がスタートすることになりました。
・奴隷状態 → 解放されて神の民に
・羊飼いの少年 → イスラエルの王に
・捨てた石 → 最も重要な親石に

 「ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった」と書かれています。これは、イエスが当時のエルサレム城壁の外にあった「ゴルゴタの丘」で殺されたことを受けてマタイが記したのだと思われます。
 「イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われたのです」(ヘブライ13・12)

 それにしても、農夫たちは、なぜこのような残虐な行動をとったのでしょうか?
 「ぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立てて整えてくださった」。これだけの準備をしてくださったのは主人です。農夫たちは出来上がったぶどう園を借り受けたに過ぎないのです。ところが主人の財産を自分たちのものにしようと企んで、犯行に及びました。
 エルサレムの指導者たちは、イエスのたとえ話を聞いてどう思ったのでしょうか? 真っ先に、本日の第1朗読箇所であるイザヤ書5章の「ぶどう畑の歌」(キーワードを参照)が思い浮かんだはずです。そして「自分たちのことを言っておられると気づき、イエスを捕らえようとした」(マタイ21・45、46)のです。

 本日の御言葉を、私たちに置き換えてみたいと思います。神は宇宙万物を創造され、それら全てを「極めて良い」状態で人類に管理するようお命じになりました(創世記1章)。地球(ぶどう園)を借り受けた農夫である「今を生きる私たち」は、どのような態度を取っているでしょうか。戦争(農夫たちの殺し合い)を繰り返し、共に暮らす家である地球を傷つけ、隅に追いやられた人々の叫びに無関心であることなど、管理を委ねられた農夫として失格であると言われても返す言葉がありません。
 イエスの叱責を受け止めて、回心することができますように。 アーメン。

*キーワード:ぶどう畑の歌(イザヤ5・1-7)
わたしは歌おう、わたしの愛する者のために、そのぶどう畑の愛の歌を。
わたしの愛する者は、肥沃な丘にぶどう畑を持っていた。
よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。
その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り、良いぶどうが実るのを待った。
しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。
さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ、わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。
わたしがぶどう畑のためになすべきことで、何か、しなかったことがまだあるというのか。
わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに、なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。
さあ、お前たちに告げよう、わたしがこのぶどう畑をどうするか。
囲いを取り払い、焼かれるにまかせ、石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ、わたしはこれを見捨てる。
枝は刈り込まれず、耕されることもなく、茨やおどろが生い茂るであろう。
雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる。
イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑、主が楽しんで植えられたのはユダの人々。
主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに、見よ、流血(ミスパハ)。
正義(ツェダカ)を待っておられたのに、見よ、叫喚(ツェアカ)。

(参考)
「すべての命を守るためのキリスト者の祈り」
宇宙万物の造り主である神よ、
あなたはお造りになったすべてのものをご自分の優しさで包んでくださいます。
わたしたちが傷つけてしまった地球と、この世界で見捨てられ、
忘れ去られた人々の叫びに気づくことができるよう、一人ひとりの心を照らしてください。
無関心を遠ざけ、貧しい人や弱い人を支え、ともに暮らす家である地球を大切にできるよう、
わたしたちの役割を示してください。
すべてのいのちを守るため、よりよい未来をひらくために、
聖霊の力と光でわたしたちをとらえ、あなたの愛の道具として遣わしてください。
すべての被造物とともにあなたを賛美することができますように。
わたしたちの主イエス・キリストによって。 アーメン。
(2020年5月8日 日本カトリック司教協議会認可)

参考:(第一朗読:イザヤ5・1-7)・(第二朗読:フィリピ4・6-9)