2022年08月27日の聖書の言葉

8月28日(年間第22主日)ルカ14:1、7ー14

 安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。

 イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」

み言葉の分かち合い

み言葉の分かち合い

 今日の福音で考えさせられる事が、一つあります。それは日曜日の聖堂内での座席についてです。信徒の方は、当然ミサの始まる時間の30分前ごろから聖堂のベンチに座って待っておられます。しかし、どういうわけか皆さん、祭壇に近い席を避けられるのです。この傾向は、どうも全国共通のようです。教会によっては席を案内される係りの方がおられ、常に前の方へ誘導されるようですが、それでも「いえ、ここでいいです」と言わんばかりに、早々と後列席に座られます。まさに今日の福音を実践されているおつもりかもしれません。しかし、後方の席では、司祭の声も届きにくいし、顔もハッキリ見ることができません。そのような方に限って「ここの教会の神父さんは、私のことなんか何にも知らない、気にもかけてもらえない・・・」と不平不満を漏らします。ミサが始まる前に前の方が空いていますから「どうぞ」と言われたのにもかかわらず、お小言を言われます。まさに自分は、謙遜にふさわしい態度をとっていますよと"慢心している"ことに気づいていないのでしょう。

 さて今日の福音は、そのような信徒の方と同じタイプですが、取られる姿勢は真逆です。招待された客が上席を選ぶ、少しでも良い席に座りたがる人々を描いています。すると招いた人が来て、その方に「席を譲ってください」と言うかもしれないと言うのです。だからその時、恥をかかないように初めから末席に座れば、もし招いた方が来て「どうぞ上席にお座りください」と言うと「面目を施す」と言います。確かにこれこそ真の謙遜であり、人としての姿であると思います。そのあとイエスは、また招待した方に対して言われます。「知人、親戚、お金持ちを招くな」と。宴会を催す時は「貧しい人を招きなさい」と言われます。その訳は、貧しい人は「お返しができない」から、お金持ち、知人、親戚はお返しをするからです、と。
 この言葉と前半の上席に座らないというお話とどのような関連があるのでしょうか。それは初めに記述した今日の教会のミサの時の席と同じです。謙遜を自分の都合に重ねて面目を果たしていること、上席でなく末席を選ぶのは、常識と言われます。そこから大半の方々は、末席に着きます。但し、教会のケースもありますし、また招待者から「声がかかるのを待っている人」もいます。そのような人にとってイエスの言う「面目」を施したことにはならないでしょう。

 何故なら「面目」を施す恵は、神から与えられるもので人からではないからです。人から与えられる「報い」(上席へどうぞ)は、神からのものではありません。人からのものは即座に与えられますが、神様からの「報い」が与えられるのは、時間がかかります。しかし、見返りを対価としない生き方には、必ず、神様からの報いを得ることになるでしょう。

 イエスの言われる「面目」の相手は、人ではなく神様であることを覚えておきましょう。神に感謝

参考:(第一朗読:シラ3・17-18、20、28-29)・(第二朗読:ヘブライ12・18-19、22-24a)


2022年08月20日の聖書の言葉

8月21日(年間第21主日)ルカ13:22ー30

 そのとき、イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」

み言葉の分かち合い

み言葉の分かち合い

 今日の福音のテーマは「神の国」と言っていいでしょう。その神の国をめぐって話が展開されていきます。イエスがエルサレムに向かって進んでおられると、通りがかりの人でしょうか、それともイエスを待っていたのでしょうか、突然「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」とイエスに尋ねます。するとイエスは、その人だけでなく一同に向かって話されます。この一同とは、多分、イエスが「神の国とは何か」について町や村の会堂で教えていたので、そこで不思議に思った人々が何人かついて来ていたのでしょう。

 「狭い戸口から入るように努めなさい」と言われた後、また喩えを用いて話されました。ここでのキーワードは、①「狭い戸口」②「努めなさい」です。なぜ「狭い戸口」なのか。ここでイエスは戸口のことを指して言ったのではなく、ユダヤ人の「心の狭さ」を指して話しています。つまり、ユダヤの人々は、イエスのみ言葉を受け入れることが難しかった。彼らの待ち望んでいるメシアの言葉であるのに認めず、聞く耳を持たなかったのです。そこから彼らの心の狭さを「狭い戸口」と言われたのです。鍵となる言葉「努めなさい」ギリシャ語αγωνιζεσθεは [運動競技or戦闘で勝つ為に体を鍛える努力] を意味します。つまり、人は自分自身を鍛錬することを必要とします。競う人の鍛錬ですから、姑息な技術ではなく、自分自身の身体を鍛え上げる努力です。神の国の戸口は狭いから、終わりの時に殺到することを想定し、今から努力を始める必要がありますよ、と。気づくのが遅くなれば狭い戸口は開けてもらえないからです。

 「後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある」と言われます。ユダヤ人は、救いの約束を受けた先の人です。しかし、イエスの言う「神の国」は、異邦人にも開かれています。ユダヤ人でありさえすれば優先権を持つのではなく、不義を行う者であれば、仮にイエスから教えを受けていても、寝食を共にしたとしても、ただその時、共に過ごしただけに過ぎず、真の関係を持ったことにはならないのです。
 人種・身分を問わないイエスにとって、神との関わりに対して、誠実に生きる者に対して、救いは保障されていますよということなのです。そうした生き方をしないで自分勝手な振る舞いの生き方では、イエスの言われる狭い戸口は、いつになっても入ることも、開けて戴くこともないでしょう。

 自分はもう洗礼を受けたからと慢心するのではなく、いつも開かれた心でイエスのみ言葉に生きようとする姿勢を保つことができますように。

参考:(第一朗読:イザヤ66・18-21)・(第二朗読:ヘブライ12・5-7、11-13)


2022年08月13日の聖書の言葉

8月14日(年間第20主日)ルカ12:49ー53

 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。

 父は子と、子は父と、
   母は娘と、娘は母と、
しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、
対立して分かれる。」

み言葉の分かち合い

み言葉の分かち合い

 今日の福音は、冒頭から厳しい言葉で始まります。「火を投ずるため・・・」とか「・・・分裂だ」とおっしゃられます。福音書では、あまり聞くことのない数少ない言葉です。何故ならみ言葉は、人が生きていく上で大切な言葉であり、時に温もりを、勇気を、励ましを、希望を贈られる言葉だからです。しかし、今日のイエスの厳しい言葉は、何かを意図した厳しさのような感じを受けさせられます。その原因が何か?深読していくと観えて来るものがあります。

 それは私たち人間の心底に潜んでいる「罪」、つまり自我・エゴイズムです。残念ながら、誰も自我を自分の目で見ることはできませんが、感じることはできます。そこでイエスは、「私が来たのは、地上に火を投ずるため」と言われるのです。何故そう言われたのでしょうか。「火」は、時々祭事でも使用されるのを見受けますが、それは"清めの火"としての働きを持っています。また「火」は、煌々と明かりを照らすことによって暗闇の世界を映し出します。つまり、「火」によって人の目に見えなかったものが、露わになるように、それまで観えなかった人間の醜い姿・部分までも映し出しますよということです。人間の「罪」は、罪であるがゆえに、そのことを自覚する。そしてその罪を素直に是正し、誠実に正しいものにする必要があるのです。

 イエスは「私には受けねばならない洗礼・・・それが終わるまで・・・苦しむ・・」と言われます。この"洗礼"は、イエスの十字架上の死を意味しており、"苦しみ"は、その十字架までの受難を示唆しているのです。

 そして"分裂"は、イエスの到来によってもたらされる緊急事態の発生ではなく、すでに神と人間、人と人との間にあったものが、人間の罪によって露見するからです。その"露見するきっかけ"・火付け役は、私たち人間です。この人間の自我が動き始めると、神から離脱して自己中心の活動が始まるのです。

 普通、人間は生きるために何か目標を立てその目標に向かって歩み始めます。その際、羅針盤となるみ言葉を全ての判断基準として歩み続けるのです。
 ところが罪による偶像崇拝あるいは教祖信仰によって神から離脱します。その結果、自分or偶像、教祖が、神に代わって全ての判断基準となるのです。
 この現実を気づかせるために、分裂によってその原因を明らかにさせるのです。

 その分裂を避けるためには、"神の国"つまりイエスの愛、神の愛を熟知して受け入れることが大切なのです。

参考:(第一朗読:エレミヤ38・4-6,8-10)・(第二朗読:ヘブライ12・1-4)


2022年08月06日の聖書の言葉

8月7日(年間第19主日)ルカ12:32−48

 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」

 「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」

 そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと、主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」

み言葉の分かち合い

み言葉の分かち合い

 「人の子は思いがけない時に来る」。この言葉を受けて、"思いがけない時に来られる御方のためにどうすれば良いのかについて、今日の福音は話されます。

 先ず「目を覚ましていなさい」と言われます。しかし、目を覚ましている為には、"いつ来るのか"その時間を知らずに起きていられるでしょうか。その時が、いつか判らなくても待つ事ができる「信仰」の必携について話されます。

 第一朗読そして第二朗読においても「信仰」とは"何か"を強調しています。つまり、人は御方からこの世に生まれた時に与った命を「人として」活かしていく為には「信仰が大切」であることが今日の福音のテーマなのです。

 先ず、神を信じる人には、神は"喜んで神の国を与えられる"と言われます。その神の国とはどのようなものなのでしょうか。聖書の中で言われる「神の国」とは、人間ではなく神の支配する国であり、そこでは何不自由ない生活があると言われます。したがって、この世で全てのものを神に捧げることは、天に宝を積むことですと。
 その天に宝を積むためには、何をどうするかを喩えで教えます。「主人が婚宴から帰って来て戸を叩く時、すぐに開けようと待っている人のようにしなさい」と。それは何時でもいかなる時でも目を覚まして起きて待つことです。いつ帰るか判らない人を起きて待つことは大変です。しかし、イエスの言われる『目を覚まして』とは、"目を覚ましている"と「・・・僕たちは幸いだ」という"幸いになる"恵みが与えられるからです。

 それは具体的に「主人は帰ってくると僕たちのために食事の準備に取り掛かり、僕たちを食卓につかせて出来上がった食事の給仕をしてくださる」のです。だから真夜中に帰ろうと、夜明けに帰ろうと「目を覚ましていなさい」と言われるのです。そうすることであなた方は「幸いだ」ということになるからですと。「このことをわきまえていなさい」と言われ、「人の子は思いがけない時に来るからである」と話されたのです。
 この話にペトロが、「このお話は誰の為に話しておられますか」とイエスに尋ねますが、イエスはその質問に答えず、続けます。イエスの言葉は、その場にいた群衆、弟子たち、そして今日この福音を読む者に対しても話されているのです。但し、このことを知りながら"怠る者"に対しては、どのような結果を招くかも話されています。

 イエスのみ言葉を信じる人、その戴いた信仰に生きることを選んだ人は、沢山の恵みを頂戴し続けています。その恵みを今日もう一度確認してみませんか。

参考:(第一朗読:知恵18・6-9・(第二朗読:ヘブライ11・1-2、8-12)