2022年08月13日の聖書の言葉

8月14日(年間第20主日)ルカ12:49ー53

 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。

 父は子と、子は父と、
   母は娘と、娘は母と、
しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、
対立して分かれる。」

み言葉の分かち合い

み言葉の分かち合い

 今日の福音は、冒頭から厳しい言葉で始まります。「火を投ずるため・・・」とか「・・・分裂だ」とおっしゃられます。福音書では、あまり聞くことのない数少ない言葉です。何故ならみ言葉は、人が生きていく上で大切な言葉であり、時に温もりを、勇気を、励ましを、希望を贈られる言葉だからです。しかし、今日のイエスの厳しい言葉は、何かを意図した厳しさのような感じを受けさせられます。その原因が何か?深読していくと観えて来るものがあります。

 それは私たち人間の心底に潜んでいる「罪」、つまり自我・エゴイズムです。残念ながら、誰も自我を自分の目で見ることはできませんが、感じることはできます。そこでイエスは、「私が来たのは、地上に火を投ずるため」と言われるのです。何故そう言われたのでしょうか。「火」は、時々祭事でも使用されるのを見受けますが、それは"清めの火"としての働きを持っています。また「火」は、煌々と明かりを照らすことによって暗闇の世界を映し出します。つまり、「火」によって人の目に見えなかったものが、露わになるように、それまで観えなかった人間の醜い姿・部分までも映し出しますよということです。人間の「罪」は、罪であるがゆえに、そのことを自覚する。そしてその罪を素直に是正し、誠実に正しいものにする必要があるのです。

 イエスは「私には受けねばならない洗礼・・・それが終わるまで・・・苦しむ・・」と言われます。この"洗礼"は、イエスの十字架上の死を意味しており、"苦しみ"は、その十字架までの受難を示唆しているのです。

 そして"分裂"は、イエスの到来によってもたらされる緊急事態の発生ではなく、すでに神と人間、人と人との間にあったものが、人間の罪によって露見するからです。その"露見するきっかけ"・火付け役は、私たち人間です。この人間の自我が動き始めると、神から離脱して自己中心の活動が始まるのです。

 普通、人間は生きるために何か目標を立てその目標に向かって歩み始めます。その際、羅針盤となるみ言葉を全ての判断基準として歩み続けるのです。
 ところが罪による偶像崇拝あるいは教祖信仰によって神から離脱します。その結果、自分or偶像、教祖が、神に代わって全ての判断基準となるのです。
 この現実を気づかせるために、分裂によってその原因を明らかにさせるのです。

 その分裂を避けるためには、"神の国"つまりイエスの愛、神の愛を熟知して受け入れることが大切なのです。

参考:(第一朗読:エレミヤ38・4-6,8-10)・(第二朗読:ヘブライ12・1-4)