2022年11月26日の聖書の言葉

11月27日 待降節第1主日(A年) マタイ24:37-44

 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「人の子が来るのは、ノアの時と同じである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」

み言葉の分かち合い

み言葉の分かち合い

 さぁ、今日から待降節が始まります。ご存知のように待降節は、5世紀ごろからお祝いされたようです。この待降節の意義を先ず、確認しておきましょう。

 "主の出現"を待ち望む準備期間のことですが、この"待望"の期間、日本の教会も信徒も今一つ"盛り上がらない"過ごし方になっていないでしょうか。待降節において教会は、毎週、週の初めにろうそくを一本ずつ灯して、ミサに与る信者に意識するよう促します。それは近づく主の出現の日、待望の日の"知らせ"です。教会の祝祭や安息日は、心を満たされる日です。教会暦は、そうした祝祭日によって日常生活にメリハリをつけ、救いの歴史をお祝いし、神と共に歩む生活をするのです。
 したがって、待降節は主の現れが近づく喜びの時ですから、もっと祭儀の中で待望・解放の喜びを表現しても良いと思います。ただ何となく待降節を過ごすことは、祭り好きの日本人であれば、有り得ないことだと思いませんか。勿論、救いは人間が作り出すものでは有りません。神によって救われるものです。その神を信じる者にとって、何もなくただじっと静かに待つのではなく、喜びを表現できる待降節を期待したいと思います。

 今日の福音は、まさにそのことを強調しているように思います。"人の子は思いがけない時に来るから"「目を覚ましていなさい。・・・あなた方にはわからない。だから・・わきまえていなさい。・・・・用意していなさい」と人の子が来るのは、ノアの時と同じだからと話されます。

 日本の待降節は、沈思黙考して待つ人が多いと思いますが、心の準備としてどこか物足りなさを感じませんか。かつて北アイルランドで待降節を過ごした時、主日には何か催しがありました。その催しから信者が"待望"を忘れることはありませんでした。むしろ近づいている事を肌で感じる事が出来ました。催しは老若男女参加型のもので、楽しいひと時を過ごした事を覚えています。
 ところが帰国して何回も待降節を過ごしていますが、待降節に催事のあった記憶は殆どありません。結果、ご降誕祭前晩まで、あまり意識することなく過ごしました。ただ商店街で毎年催される"歳末セール"そのデコレーションによってご降誕の日を意識します。

 もっと教会主導型で"待降節"の待望のあり方を共同体の喜びで表現できたらと期待します。そうすることで今日の福音「人の子は思いがけない時に来られる。だから目を覚ましていること、わきまえていること、用意していること」を自然体で意識化する事ができるのではないでしょうか。

参考:(第一朗読:イザヤ2・1-5)・(第二朗読:ローマ13・11-14a)


2022年11月19日の聖書の言葉

11月20日 王であるキリスト(年間第34週) ルカ23:35-43

 そのとき、議員たちはイエスをあざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

み言葉の分かち合い

み言葉の分かち合い

 今日は教会暦で年間最後の主日です。そして、この日はまた"王であるキリスト"をお祝いする日です。イエス様は、最後十字架刑に挙げられた時、神に向かって、弟子たちに向かって、母マリアに向かって、人々に向かっていろいろなメッセージを語られました。今日の福音は、その中の一つです。また今日の福音箇所は、最も壮絶な十字架に架けられた場面を描いています。その壮絶さの中にあって一人偉大な方・イエスの姿が際立っています。それは悲惨な外観の姿からではなく、イエスの言葉から観ることが出来るのです。

 さてイエスの架けられた十字架の傍には、十字架刑を観るために集まった群衆やその中に混じって観ている弟子達、婦人達もいたでしょう。そして彼らとは正反対に、イエスを最後まで罵る者たち、①ユダヤ教の議員たち「・・・選ばれた者なら、自分を救うがよい」。②兵士たち「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」。③同じ十字架に架けられた一人「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」がいます。これらイエスを罵る三種類の人たちは、"選ばれた者"、"ユダヤ人の王"、"王であるメシア"、"ホンマかいな?"等と嘲り、無抵抗なイエスを大勢の人々の前で徹底的に汚い言葉で攻撃しています。
 確かに、これは非現実的な光景に見えるかも知れません。しかし、これこそイエスにとって神との関わりの中で最も大切なことを意味しているようです。その理由として、イエスは十字架から降りられなかったのではありません。イエスの十字架には、神の意志が込められており、その意志を果たすことが、イエスを"選ばれた者"とされた使命である所以だからです。その証として、もう一人の犯罪人の言葉「・・・この方は何も悪いことをしていない。イエスよ、あなたが御国においでになるときには、わたしを思い出してください」。これに対してイエスは「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われました。

 徹底的に人々から侮辱を受けたイエスは、最も優しい王として一人の犯罪人・彼の人生で最も過酷な生涯を終わろうとしているこの犯罪人に、"罪の赦しと救い"を約束されたのです。
 イエスがこの世に来られた使命は、この世の価値観に基づくメシア、ユダヤ人の王、選ばれた者、ではありません。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」(ルカ9:35)と言われた神に選ばれた者とは、全ての人の罪が神によって赦される為に、イエスは"救い主として"この世に来られたのです。これこそ神の意志なのです。それを十字架から降りて悪を滅ぼすようなこの世的な価値観には、決して従うことがなかったのです。
 それ故に、イエスは最後の最後まで神の価値観、神に選ばれた者として十字架から降りなかったのです。パウロも言われるように、"真の愛とは自分自身を無にしても、他人を救うことなのです"と。

 イエスがメシア、王であるのは、素晴らしい神の愛を全ての人に約束してくださるからなのです。その愛をあなたにも注がれるのです。
 そのことに気づいていますか。

参考:(第一朗読:サムエル下5・1ー3)・(第二朗読:コロサイ1・12ー20)


2022年11月12日の聖書の言葉

11月13日 年間第33主日 ルカ21:5-19

 そのとき、ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」

 そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢鐘や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」

み言葉の分かち合い

み言葉の分かち合い

 今日の福音から気づかされるのは、"どこか今の世界に似ているのではないか"という事です。"戦争、暴動、敵対、地震、飢饉、疫病等など"まさに現在の世界の抱える問題の数々を記述している様に思います。この現在に似ている状況に対してイエスは、どうすれば良いかを話される非常に興味深い福音です。
 聖書の中では、この様な記述の仕方を"終末"と呼んでいますが、終末イコール崩壊、地球の破滅、人類最後の日を指して言われるのでしょうか。この箇所を丁寧に読んでいくと、どうもそうではない事に気付かされます。つまり、終末は"この世の終わり"ではありません。むしろ正反対で"この世の完成あるいはそれが実現する時"に向かっているので、一人ひとりが、"真に回心"することを気づいて、あなたの神である主に対して、心からの信頼関係を築きなさいと言われているのです。

 さて今日の話のキッカケとなるのが、冒頭のことば「神殿の見事な石と奉納物」です。これに見とれていた人々に話しかけたイエスの言葉からでした。当時、イエスラエルで神殿は"神の臨在する場所"であり、"神のしるし"とまで考えられていた場所です。その場所が、滅ぶことをイエスが話されたのです。つまり、この世で人によって作られたものは、すべていつの日か無くなる事、たとえ神殿であってもいつかは滅び、人の目から価値のないものとなることを預言されたのです。
 現代においても同じことが言えるのではないでしょうか。戦争、自然災害など大きな被害を被る時、私たちは不安、心配が先行し、明日の姿が見えてこない、聞こえてこなくなるのです。その結果、いつの世も悪知恵のある人が、この時とばかり、弱い人、貧しい人の心に空き入り、人の心を欺くのです。悪知恵を持つ人々が増えている世界では、自己中心が蔓延し、"思い上がって人を侮る高慢な者たち"の横行する世の中に変化していくのです。偽善者の言動に惑わされることなく、また偽装する偶像に惑わされることなく、何が真理であるか、何が本物であるかを識別できる習慣を身に付けましょう。

 イスラエルの人にとって神殿は、最も大切な神様の住まいでした。その住まいが滅ぼされることを聞かされ、「そのしるし」は何かを尋ねます。イエスは「惑わされないように気をつけなさい・・・」。また私を名乗るものが現れても付いて行くなと言います。たとえ彼らが恐ろしいことを言っても、それら全ては神様の計画された出来事です。彼らに付いて行ってはいけないと。
 つまり、彼らの言うことに"惑わされるな"。神を信じる人は、神の目的が何であるかを知っていなくてはなりません。その目的は"救い"なのです。人類はその救いに与るために、何をすれば良いかそのことを学びなさい。それは神に対する信頼、その信頼から生じる回心であり、どのような出来事が起こっても「忍耐」すること。忍耐とは恨み辛みに耐えることではありません。心から神に信頼して、神の救いを待ち望むことなのです。

 マリア様のように私たちも真の忍耐を学び、救いの恵みに与れる様に識別できる力を祈りの習慣で身に纏いましょう。

参考:(第一朗読:マラキ3・19ー20a)・(第二朗読:ニテサロニケ3・7ー12)


2022年11月05日の聖書の言葉

11月6日 年間第32主日 ルカ20:27-38

 そのとき、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。
 「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」
 イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」

み言葉の分かち合い

み言葉の分かち合い

 今日の福音は、復活を信じないサドカイ派の人とイエスとの問答です。この問答は輪廻思想の多い我が国の人にとっても、また"復活とはどういうことか"明確に理解していない人にとっても大切な箇所です。

 先ず、サドカイ派の人は何故このような質問をしたのでしょうか。サドカイ派の人が、イエスに向かって「・・・弟は兄嫁と結婚して・・・」と尋ねる箇所ですが、どうしてこのような質問をされたのかよく理解できません。それを調べますと、当時サドカイ派の人は、ユダヤ教の中でファリサイ派の人と並んで熱心な信者グループでありました。ただ異なる点は、彼らのグループでは、モーセ五書を聖書とし、復活を信じなかったのです。また質問内容から彼らが、レビレト婚(申命25:5-10;子供なしに夫に先立たれた妻は、夫の兄弟と再婚して、生まれた子供を前夫の子として登録し、遺産を継承する制度)の制度を受け容れており、その制度は当時サドカイ派の人々の慣習となっていました。
 そこでサドカイ派の人は、一人の女に対して七人もの夫がいる場合、あなたの言う"復活"の時、「この女は誰の妻になるのか」と質問をしたのです。

 それに対してイエスは、はっきりと彼らに答えられました。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが・・・次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない」と。またイエスの答えから「この世の子ら」と「次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしい人」と言われるように、この世と次の世を明確に区別していることです。これは、サドカイ派の復活に対する考え方の根本的な違いを指摘しています。
 つまり、サドカイ派の人は、"復活後の世界"をまるでこの世の形態と同レベルで捉え、復活を"蘇生する"こととして考えているのです。しかし、イエスの言われる"復活"は、蘇生ではなく次の世・来るべき世は、復活するのにふさわしいとされた人が、「永遠の生命を受ける」(ルカ18:30)のです。

 復活は新しい生命、復活するのにふさわしい人は、新たな命を戴き神の子とされるのです。その新しさとは、この世での命とは根本的に異なる生き方となるのです。したがって、そこでは「めとることも嫁ぐこともありません」。「復活」は、"蘇生"する事とは違います。蘇生は以前の状態に戻る事、つまり、生前の姿、形と同じものになる事を言いますが、「復活」は、全く新しい世界、新たな世界に甦る事なのです。
 ちなみに、仏教界に"輪廻"思想というものがありますが、輪廻は「生あるものが死後、三界・六道を次の世に向けて生と死を繰り返す事」と言われます。そして輪廻の場合は、必ずしも人として生まれ変わる事を言っているのではなく、この世の全ての何か(動植物・生命体)に生まれ変わる事を言うのだそうです。
 あなたは復活を信じていますか。

参考:(第一朗読:ニマカバイ7・1ー2、9-14)・(第二朗読:ニテサロニケ2・16~3・5)