2021年10月30日の聖書の言葉

10月31日 年間第31主日「あなたの神である主を愛しなさい。隣人を自分の様に愛しなさい。」(マルコ12:30~31)

 今日の福音は、一人の律法学者がイエスの前に進み出て「あらゆる掟のうちで、どれが第一ですか」との質問から展開されています。つまり当時、掟は律法学者たちによってそれぞれ細則が作られ、その数なんと六百以上もあったと伝えられます。その中でどれが一番かと言われても・・・と思うのが普通でしょう。それに対してイエスは、律法学者に向かって「大切な掟は次の二つ、しかもこの二つに勝る掟はない」と断言されます。すると律法学者は「先生、おっしゃる通りです」と答えます。確かに、当時熱心な人々は、律法学者、ファリサイ派の人々の中に大勢いました。そこで彼らは神の掟を日々の生活の中で守るために、どうすれば良いかを考えて、その具現化のために出来上がったのが掟の細則でした。ところがいつの間にかその細則が、「昔の人の言い伝え」となり、その細則の方が掟よりも優位になったのです。その結果、細則すべて"そうしなければならない"と変わり日常生活の中で義務化され、怠るものは"罪人"扱いされたということです。

 イエスの弟子たちが、聖書の中で度々、律法学者やファリサイ派の人々から指摘されるのはそのことです。しかし、今日登場した律法学者は少し違います。彼はイエスの話されたことに賛同しています。勿論、彼の様にその理由を知ろうと思えば、旧約聖書のモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)を深読すれば理解できるでしょう。そこでイエスは彼に向かって「あなたは、神の国から遠くない」と言われました。それほどよく知っている彼でさえ"遠くない?"のか。あまり旧約を知らない者にとって、このイエスの言葉はどの様に受取るべきか考え込んでしまいます。つまり、イエスはその律法学者に、「やっとあなたは神の国の入り口に立ちましたよ」と言われたのです。少し失礼な表現かもしれませんが、イエスから観ると律法学者もファリサイ派の人も弟子たちも皆同じレベルであることが理解できます。またこの律法学者も含め「あえて質問する者はなかった」と記述される様に、他の律法学者やファリサイ派や弟子たちも含めた人々全てを指しています。ということは、イエスが掟の中で大切な二つを"これに勝る掟は他にない"と言った言葉に誰もが賛同したということです。どの様にそうすることができたのか。それはイエスが二つの大切な掟を提言したことによって、他の掟全てを相対化したからです。ここにイエスの新たな教えがあります。

 キリスト者らしく生きようと日常生活の中であれこれ奮闘努力する熱心なあなたへ、もしかして周りの人々に"昔の人の言い伝え"を主張していませんか。


2021年10月23日の聖書の言葉

10月24日 年間第30主日「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」(マルコ10:49)

 今日の福音には躍動的な場面が観られます。その躍動の人が、盲人バルティマイです。いつものように彼は、エリコで道端に座って物乞いをしていました。その時、彼は騒めきで大勢の群衆が、エリコから出て行くことに気づきます。それがナザレのイエスの移動だと知ると物乞いそっちのけで、いきなり大声で「ダビデの子」と叫びます。叫んで、叫んで何とか自分の声がイエスに届くように、必死になってバルティマイは叫び続けます。叫び声はイエスに向かって「私を憐れんでください」と、周りの人の制止も聞かず、イエスに懇願したのです。彼の叫び声を聞いたイエスは、彼の切願を受け止められました。すぐに立ち止まって弟子に「呼んで来なさい」と。しかし、連れてきたのは弟子たちではなかった。弟子たちは、むしろ彼を制止していたと思います。だから呼ばれた盲人と一緒に喜んだのは人々で、その人々が「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」と言ったのです。おそらく弟子たちは、"唖然としていた"。そんな光景が目に浮かぶ様です。ここにまだ弟子たちのイエスのみ旨への習熟のなさ、利己的な心の姿勢を知らされます。

 さてバルティマイの「叫び」、それに呼応するイエスの「呼べ」は、音で表現した"秘跡の出会い"ではないでしょうか。さらにイエスは、上着を脱ぎ捨て、躍り上がって喜ぶバルティマイに優しく「何をして欲しいのか」と尋ねられます。即座に「先生!目が見えるように」。イエスは彼の願いを察知していたでしょう。イエスに全面的信頼を持って正直に、ストレートに願うバルティマイを愛おしくさえ思われたのではないでしょうか。「あなたの信仰があなたを救った」。盲人は、すぐ目が見えるようになり、イエスに従ったとあります。「真剣に願うなら必ずその願いは叶えられる」とイエスは言われます。つまり、駆け引きなくバルティマイのように真剣に、必死に願う、祈ることがあっただろうか。"奇跡の出会い"、その事をバルティマイによって伝える今日の福音であると思います。

 出会いのご経験をお持ちの方は、大勢いらっしゃると思いませんが、少なくないと思います。その多くの方々が「召命」という出会いに授かって、司祭、修道者になられている方もいらっしゃいます。また救われたという体験から、この幸せの「喜び」を戴いたから、この喜びを大勢の人々に伝えたい。そんな気持ちの方々もいらっしゃるのではないでしょうか。全ての人に喜びの出会いの機会はあります。神に信頼して真剣に願うとき、その出会いにいつの日かあなたにも・・・。


2021年10月16日の聖書の言葉

10月17日 年間第29主日「人の子は、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来た。」(マルコ10:45)

 今日の主日では、第一朗読イザヤ書で「私の僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った」という。第二朗読ヘブライ人への手紙の中では「私たちと同様に試練に会うためであり、この試練を通して私たちの弱さに同情する術を手に入れました」と記述されます。そして、福音が続きます。

 ゼベダイの子ヤコブとヨハネが、自分たちの願いをイエスに頼むため、イエスのもとに来て願います。彼らを見て「何をして欲しいのか」と二人に言うと、イエスは意外な願いを聞かされます。おそらく彼らからその様な願いを聞かされるとは、思いもしなかった。イエスはそれを聞かされ正直"がっかり"したのではないでしょうか。そしてイエスは、彼らに「分かっていない」と言われ、さらに彼らに質問を投げるが、イエスの思いと彼らの思いが、全く噛み合っていないことに弟子たちは気づいていない。さらにその事を知った他の弟子たちが、ヤコブとヨハネの言動に対して、"自分たちを出し抜いた"として憤ります。イエスは、弟子たちがまだ十分にご自身の存在、弟子たちに対するご自身の思いが伝わっていないことを知らされます。そこでイエスは、弟子たちにご自分が神の僕としての存在である意義について話されます。また弟子たちに対して「偉くなりたいと思う人は、皆に仕える者になりなさい。もっと偉くなりたい者は、すべての者の僕になりなさい。そして、ご自身のこの世での使命について話されました。

 イエスの使命とは、壮絶な使命なのです。しかし、その使命を果たしたから、必ず栄光への道に入ることは、保障されていないのです。栄光の道とは、花で彩られた道ではなく、茨の道であり、十字架上での血の道だからです。そのために弟子たちに質問したイエスの言葉"私が飲む盃であり、私が受ける洗礼"だったのです。悲しいかな当時の弟子たちには、全く理解できませんでした。これが露わな人間の姿であることをイエスは、実感させられたのでしょう。それはまた現代に生きる私たちを弟子だと思っている者への注意喚起といってもいいでしょう。ご都合主義的な私たちにとって、耳の痛い今日の話ですが、逃げる、避ける、誤魔化すのではなく、しっかりと現実のありのままの自分の姿を直視したいと思います。ありのままの姿を見るとき、時に見せられる時、打算的で、利己的で、開き直って遣っ付け仕事で誤魔化していることの多さに気づかされます。今日は、そのような貧しい自分を神の前で正直に、ありのままの自分を見つめ直すことができるよう努めてみませんか。


2021年10月09日の聖書の言葉

10月10日 年間第28主日「持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。・・・従いなさい。」(マルコ10:21)

 今日の福音箇所から今夏開催された東京パラリンピックでパラアスリートの話した言葉を思い起こされます。「どんなに辛い苦難や厳しさにあっても、常に前向きに前進することによって、必ず、道が拓けてくる」と。同じ様な境遇にある者への力強い励ましの言葉でした。そして今日の福音からも、その言葉を聞くことができます。どの様な苦しい状況であっても神とイエス・キリストを信じる者こそ明日には必ず、明るく豊かな者に変えられると。神は貧しく小さな者をあえてお選びになりました。なぜなら彼らこそ真に素直で誠実であり、み言葉を生活に生かすことのできる人だからです。そうした人こそ神の望まれる人であり、神からますます信仰を豊かに戴き、神の約束の地を受け継ぐ人とされるのです。それでは「何が私を、私たちを豊かにさせるのか」、「何によって私・私たちは豊かになることができるのか」。それについて福音は答えています。

 今日登場する青年、彼が真摯な人であることは、「走り寄って、跪いて尋ねた」という表現から理解できます。さらにその青年は真剣にイエスに「どうすれば良いか」と尋ねます。イエスの質問に対する青年の口からは「勿論、毎日生活の中で実践しています」との答えでした。ところが意地悪とも思えるイエスの指摘は「あなたには一つ欠けているものがある」と。人間誰でも一つや二つ欠点はあると思います。ましてや自分を観るとき二つどころか、数えられないくらいあることに気づきます。しかし、イエスの青年に言った言葉は、決して"いじめ"では無いことが解ります。「彼を見つめ、慈しんで言われた」と前置きしています。確かにイエスは、これほど誠実な青年を見たことがなかった。ご自分の弟子に、と期待したかも・・・。しかし現実は、「気を落とし、悲しみながら立ち去った」とあります。なぜ悲しかったのか。それはこの青年がイエスを愛し、イエスに従うことが永遠の命への道であることを感じ取っていたからです。大金持ちでなかったら、この青年は直ぐにイエスに付き従ったかもしれません。しかし青年は「立ち去った」のです。それはこの青年の悩み苦しんでいた事の解決にならなかったのです。

 今日の福音のメッセージ、それは金持ちの青年を非難することではありません。むしろ青年の金持ち故に持たされた「葛藤」、そこから解放されることに繋がらなかったのです。「小欲知足」、貧しくても少しのもので満足できれば、幸せな人生を送れるということです。お金持ちの皆様、司祭、修道者の皆様、どのように今日の福音を戴かれますか。


2021年10月02日の聖書の言葉

10月3日 年間第27主日「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」(マルコ10:9)

 今日の福音の場所、そこはカファルナウムからユダヤ地方のヨルダン川の向こうへ来たと記されています。移動距離約60km、かなり早く移動しているのに驚きを感じます。おそらくこれは読み手の印象からでしょう。それよりも気になるのは、何処にいってもファリサイ派の人々が、イエスに会うと必ず試みている事です。ここにイエスの言動が、当時の人々に対して違和感を与えていたことに気づかされます。

 この時代は男性中心社会、しかも身分制度も厳しかった。そんな時代にファリサイ派という学識があり、当時の人々から尊敬されていた身分の人への挑戦的な言動をするイエスは、彼らにとって真に脅威であり、またその様なイエスを論破することによって、自分の知名度向上に繋がるとも考えられるでしょう。さらに当時の男性中心社会から神の創造した人、女性をぞんざいに扱い、対等のパートナー・助け手として創られた女性としての地位はなかった。そうした身勝手な思い込みや誤解をしない様にという神の思いが、掟の説明を目的として知らされたが、人間は掟のみ厳守の細則"昔の人の言い伝え"を守ることによって、完全に掟を遵守できるとし、神の掟の真髄を見失ってしまったのです。

 そこで今日の福音は、それに気づかせるために語られるのです。今日のテーマは、現代社会における問題にも示唆する「離縁」の問題です。「離縁状を提出すれば離縁は成立します」。現代と異なる点は、女性の方が強い場合もある点です。さて当時は男社会の傍若無人ぶりが結婚という神聖なものまで横行していたことです。それは男性社会で印象付けていますが、人間の自我、つまり都合の良い様に全てが歪められたことです。創世記の中に記述される女の創造に当たって神は、人が一人でいるのは良くない。助け手を創ろうとお考えになり、男から肋骨を一本砕いてとり、女を創造されました。従って男と女は互いに命を響かせ助け合って生き、平等であり互いに必要不可欠の者であるのです。結婚することは、どちらかの身勝手な思い、考えからではなく神のみ前でありのままの二人が対等の立場で「神の呼びかけに応える結果」なのです。掟にあることは、神からの呼びかけであり、人を束縛するものではありません。束縛は、人間の身勝手な言動であり、ご都合主義的な言動です。ここに素直で実直で全てを委ねて生きる子供を引き合いに出し「神の国はこの様な者たちのものである」と断言されたのです。あなたは神の掟をどの様に理解されていますか。