今日の福音の場所、そこはカファルナウムからユダヤ地方のヨルダン川の向こうへ来たと記されています。移動距離約60km、かなり早く移動しているのに驚きを感じます。おそらくこれは読み手の印象からでしょう。それよりも気になるのは、何処にいってもファリサイ派の人々が、イエスに会うと必ず試みている事です。ここにイエスの言動が、当時の人々に対して違和感を与えていたことに気づかされます。
この時代は男性中心社会、しかも身分制度も厳しかった。そんな時代にファリサイ派という学識があり、当時の人々から尊敬されていた身分の人への挑戦的な言動をするイエスは、彼らにとって真に脅威であり、またその様なイエスを論破することによって、自分の知名度向上に繋がるとも考えられるでしょう。さらに当時の男性中心社会から神の創造した人、女性をぞんざいに扱い、対等のパートナー・助け手として創られた女性としての地位はなかった。そうした身勝手な思い込みや誤解をしない様にという神の思いが、掟の説明を目的として知らされたが、人間は掟のみ厳守の細則"昔の人の言い伝え"を守ることによって、完全に掟を遵守できるとし、神の掟の真髄を見失ってしまったのです。
そこで今日の福音は、それに気づかせるために語られるのです。今日のテーマは、現代社会における問題にも示唆する「離縁」の問題です。「離縁状を提出すれば離縁は成立します」。現代と異なる点は、女性の方が強い場合もある点です。さて当時は男社会の傍若無人ぶりが結婚という神聖なものまで横行していたことです。それは男性社会で印象付けていますが、人間の自我、つまり都合の良い様に全てが歪められたことです。創世記の中に記述される女の創造に当たって神は、人が一人でいるのは良くない。助け手を創ろうとお考えになり、男から肋骨を一本砕いてとり、女を創造されました。従って男と女は互いに命を響かせ助け合って生き、平等であり互いに必要不可欠の者であるのです。結婚することは、どちらかの身勝手な思い、考えからではなく神のみ前でありのままの二人が対等の立場で「神の呼びかけに応える結果」なのです。掟にあることは、神からの呼びかけであり、人を束縛するものではありません。束縛は、人間の身勝手な言動であり、ご都合主義的な言動です。ここに素直で実直で全てを委ねて生きる子供を引き合いに出し「神の国はこの様な者たちのものである」と断言されたのです。あなたは神の掟をどの様に理解されていますか。