2021年07月31日の聖書の言葉

8月1日 年間第18主日「永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」(ヨハネ6・27)

 イエスは、五千人にパンの奇跡で満足させた後、群衆を避けて山に退かれた。弟子たちは、イエスが退かれた後、しばらく群衆の有志たちと後片付けをしていただろう。それが終わると弟子たちはガリラヤ湖の向こう岸カファルナウムへ行くために舟に乗った。とあるが、イエスと弟子たちは、その時どこへ行くかと話し合っていない。しかし、カファルナウムに向かったということは、多分カファルナウムが、イエスと弟子たちの宣教活動の拠点であったことが推測できる。そして弟子たちが舟に乗ってカファルナウムへ行く途中、イエスが湖上を歩いて来た話が続く。その後の記述が、今日の箇所になっている。海岸線の町ティベリアスからパンの奇跡があった場所・山の方へ来た群衆は、すでにイエスも弟子たちもいないことを確認すると、彼らも舟に乗ってカファルナウムにやって来た。そして、イエスを見つけるとすぐ「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言う。

 このヨハネの福音の描写は、イエスと弟子たちを追っかけ回す群衆の心理を上手に表現している。それはまた片時の喜び、満足、物資的幸せを求める儚い人間の姿を群衆に見立てている。そしてイエスの言葉は、永遠の喜び、真の満足、真の幸せを求めるよう示唆する。このイエスの言葉が、はっきりと言葉のコントラストとして描いている。「神の業を行うため何をするのか」という群衆の問いに、イエスは「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」と断言する。それに対して群衆は、「だったら、あなたを信じられるように"しるし"を見せてくれ」と言い返す。この群衆のイエスへ放った言葉から、イエスを神の子として認めていないことが自明である。同時に、イエスを神の子として求めたのではなく、ただ空腹をパンで満たしてくれる人として求めるだけである。ここに私たち現代人の日常にも生じている問題が見られる。つまり、群衆の唯我独尊的姿勢、人間にとって自分の間違いを素直に是正することの難しさを見る。何故なら是正することは、これまで築いてきた自分をなし崩しにしてしまうからである。

 そこで人間はプライド・自尊心・愛着心・自己満足と言った自己中心的な思い、考えが、他者への信頼、委ねることへの抵抗が生じ、素直に自分を是正することができない。したがって、そのような脆弱な人間を熟知するイエスは、唯「信じる」だけで良しとされる。にもかかわらず、それも出来ない私たち人間であることを今日の福音は語っている。あなたはイエス様のみ旨をどのように受け止めますか。


2021年07月24日の聖書の言葉

7月25日 年間第17主日「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」(ヨハネ6:5)

 このパンの奇跡の話は、4つの福音書に描かれています。このパンの奇跡、つまり、イエスの周りに集まった人々が皆、パンの増加によってお腹が十分満たされたという話です。この同じ奇跡が4つの福音書に記述されているということは、重要かつ貴重なイエスの証した"しるし"であると言えます。しかし、記述内容から見るとイエスのとった行動よりも、その行動に対する群衆の反応に焦点を当てているように思います。

 イエスは大勢の群衆が、ご自分の方へ来るのを見て、近くにいた弟子のフィリポを試み「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばいいのか」と聞きます。イエスの意図は、フィリポを試みる、そしてご自身フィリポの答えを受けて、神の業を行うこと。何も知らないフィリポのイエスに対する答えは、至極常識な答えであったと思います。しかし、ここにイエスの隠された意図がないでしょうか。換言すれば、現代の科学技術の発展は、目を見張るものが沢山あります。その一方で、科学技術の発展によって人々の心から神の存在という大切なものを見えなくしつつあります。「神の存在」をそうした科学技術の観点から見てしまうと、"イエスの伝えたいもの"全てが分解されバラバラになって、修復不可能になるのです。

 つまり、イエスの教えた神のみ言葉は、イエスが神のもとに挙げられた後、幾年も過ぎてから使徒たちによって書かれた「聖書」で、イエスによって書かれたみ言葉の書ではないということです。その事実から確かに、み言葉を知識として理解するが、納得できないもの特に奇跡の記述などは、信じることが難しいということになるのです。イエスは聖書に綴られた言葉を書いていないし、また存命中、弟子たちに何かを書いて手渡したという事実もありません。

 イエスのパンの奇跡の群衆への期待は、弟子も含めて神の存在、神の業をこの世に表したい、気づいて欲しい、その為に『私はこの世に来た』のだからということではないでしょうか。ところが群衆の奇跡への期待は、イエスの思いとは随分かけ離れたものでした。そこでイエスは、群衆から離れ再び山へと退かれたのです。しかもそのイエスの行動は、弟子を含め群衆が、イエスに対する誤解を乗り越えて、再び真の姿のイエスを追い求め続けられるようにという期待を含蓄した"山への退き"ではなかったかと聖書学者は伝えています。

 奇跡を引き起こす方、それは紛れもなく神の言葉です。あなたは奇跡をどのように解釈されていますか。


2021年07月17日の聖書の言葉

7月18日 年間第16主日「さあ、あなた方だけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」(マルコ6:31)

 今日の福音は、イエスに派遣され、旅に出て福音宣教して戻ってきた弟子たちについての話から始まります。久々にイエスから離れて自分たちだけで、イエスに教えられたみ言葉を各々がそれぞれの思いを寄せて地域の人々に伝えた。そして今、イエスのもとに帰り「自分たちが先々で話した内容や教えた詳細を残らず報告した」と。この言葉から推測するとき、弟子たちの喜び、楽しかったことや嬉しかったことなど、沢山あったことを想像します。またこのイエスと弟子たちの姿勢から、現代における社会人としての基本姿勢をも連想されます。それは"報・連・相"(ほう・れん・そう)「報告、連絡、相談」です。イエスは既にこの時代、組織運営の基本ルール「報連相」を使っていたのです。

 つまり、組織作りの基本を熟知しておられた、否、現代社会がイエスの組織作りを取り入れたのかもしれません。現代社会にあって福音宣教の難しさ、小教区内の組織作りの難しさなど時々聞かされますが、おそらく難しく感じておられる方には、今日の福音から学習することをお勧めします。常に風通しの良い組織作りを目指す方法は;

 ① 指示、命令に対して経過、結果を知らせる→報告

 ② 関係者に全ての情報を知らせる→連絡

 ③ 活動過程で困難、判断が必要な時、関係者に参考意見を求める→相談

 これら三つは、必須のスキルです。なぜならこれらを通して情報の共有、連携の強化となり物事を進める上で組織の一員として働く以上、一人で全て完結するという内容はないからです。必ず、同じミッションを持った人が存在するのが組織です。縦に横にそれぞれ人間関係があり情報共有と意思疎通ができていれば、仮に問題が起こったとしてもすぐに対応できるからです。これらのことをイエスは、理解した上で弟子たちに自然にできるように喜びを持って教え、また弟子たちも喜んでそうしたのです。イエスはそんな弟子たちにしばらく休みを取りなさいと言われます。しかし、弟子たちとイエスの実情を知らない群衆は、人里離れたところへ行った弟子たちの後を追って、弟子たちよりも先にその場所に着いたらしい。それに気づいたイエスは、群衆に怒りを向けることなく、むしろ憐れんで弟子たちに代わって、大勢の群衆に嫌な顔もせずに教え始めたとあります。このイエスの弟子たちだけでなく、大勢の群衆にも慈しみの愛を自ら伝えられるこの姿。この同じイエスの愛が、現代社会に生きる私たち一人ひとりにも届けられていることを、あなたは感じていらっしゃいますか。


2021年07月10日の聖書の言葉

7月11日 年間第15主日「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、・・・」(マルコ6・8)

 イエスは宣教の難しさを教えるだけでなく、失敗しても落胆せず、次の行動まで間を開けないで、ポジティブな考えに切り替えるように教える。また宣教場所にも固執しないで無理だと判断すれば、別の場所へ積極的に移動し宣教することを教える。そんな折、ご自身お選びになった十二使徒に宣教をさせるに当たり、その心得なるものを教えられる。その場面が今日の福音箇所である。イエスのもとに呼ばれた十二使徒たちは、それぞれ二人ずつに分けられる。それは互いに助け合う同伴者となり、一人に何か起これば、もう一人が補い、また信用に値する証人、証言が必要な場合、相互にその役割を果たすためである。これは現代においても様々な分野で生かされている。

 さて派遣するにあたって、イエスは弟子たちに汚れた霊に対する権能を授け、旅するにあたっての事細かな指示を与えている。これはイエスの弟子たちに対する思いやり、優しさ、親心といった細やかな配慮ある。と同時にイエスご自身と同じ宣教の責務を持つことに変わりはないことを教えている。イエスの弟子たちに対する仔細すぎる注意には、旅するために少し「不十分ではないか」といった危惧を感じる。そこにはイエスの考えとして、何不自由ない旅であれば、弟子たちに宣教する目的(何であるか、誰を伝えるか)を曖昧にさせるからである。不足、不十分、不満足な持ち物には、宣教の目的、何が大切であるかを、常に忘れさせない意図が含蓄される。自分ではなく、物でもない。使命は「神の存在とみ言葉を伝える」だけであること。またイエスの教えの中に派遣先でのとるべき姿勢、派遣地までの旅の途上での態度まで教えている。

 これほどまでに懇切丁寧に教える意図は、旅の途中で、あるいは旅先において弟子たちが世俗の荒波に押し流されたり、飲み込まれたり、取り込まれたりされないためである。イエスは、人間の弱点である身勝手な思い込み、勘違いから流されやすい脆弱な者であることをご存知なのである。自惚れ、傲慢、妬み、思い込みなど、それらからは人々を悔い改めに導くどころか、宣教それ自体から使徒たちを遠ざける事に繋がるからである。宣教者はイエスの代理者であり福音宣教を通してイエスご自身の姿を伝えたい。いつの時代にあっても宣教師たちは、このことに注意を払い、み言葉の奉仕者として歩むことが求められる。全国津々浦々、今日もみ言葉を必要としている人々が沢山待っておられる。是非、あなたもみ言葉を届ける宣教師に成ることが期待されている。


2021年07月03日の聖書の言葉

7月4日 年間第14主日「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」(マルコ 6・4)

 今日の福音箇所で久しぶりに故郷に帰ったイエスが、安息日に会堂に入って村人たちに話された時の様子が描かれています。会堂に集まった村人たちは、久々に出会ったイエスから何を期待していたのでしょうか。イエスが話し終えると村人たちは、異口同音に「この人は一体何者なのか」とざわめき始めます。何故ならイエスの言動が、あまりにも自分たちの常識からかけ離れ、理解するどころか大変な驚きだったからです。

 つまり彼らは、イエスを限られた田舎の狭い世界で判断していたからです。イエスが同郷人で家族や親戚の人たちも自分たちと一緒に住んでいた。しかし、目の前にいるイエスの言動を観ると「驚き」だったが「疑い」に変わらざるを得なかったのです。そして、その疑いから村人たちは、イエスに「つまづく」ことになりました。勿論イエスは、故郷だから同郷人だから彼らから特別期待することはありませんでした。しかし、イエスの言葉を聞いた村人たちは、イエスを疑いました。つまり、自分たちと同じ生活をしていた者、ましてや大工の息子、そんな貧しい家族から優れた者が出るはずがない。それが会堂で先生・ラビのように話す、否、話すだけでなく奇跡や癒しまで行う、そんな者がこの村から出るわけがないと判断した。更に我々は何か魔術か虚言を聞かされて騙されていると疑ったのでした。

 彼らの「疑った」原因は、どこにあったのか。この原因こそが今日の福音のポイントです。確かにイエスは、「敬われなかったのは故郷、親戚、家族の間です」と話します。何故、どうしてそうなのか?イエスは一体「誰なのか」、我々と一緒に幼い頃過ごした彼は「自分たちとどう違うのか」という彼ら自身の疑問です。その疑問を問い詰め、考えることなく、ただ自分たちの立場で、狭い知識からイエスを見て判断したことにあるのです。つまり彼らは、イエスを自分たちの先入観だけで判断した結果、疑いを抱いたのです。言い換えれば、都合の悪い事に対して無関心、無視することではないでしょうか。無関心、無視する人からは、イエスの言動の中に神の知恵、力、姿を見ることは難しいでしょう。外的要因で判断する村人、それ以上思慮深さを持たない人の眼には、イエスは神の子ではなく、ただの偉人かそれとも奇人変人としか写らないでしょう。

 素直に、真摯に、イエスは誰かと、その本質を問い続けなかった。貧しい狭い知識だけで判断した結果、「つまづく」ことになった同郷人。今日のこの箇所は、私たちにも信仰の原点を見直すように示唆しているようです。

 因みに、この出来事以降、イエスは会堂を訪れることがなくなっています。