2021年07月10日の聖書の言葉

7月11日 年間第15主日「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、・・・」(マルコ6・8)

 イエスは宣教の難しさを教えるだけでなく、失敗しても落胆せず、次の行動まで間を開けないで、ポジティブな考えに切り替えるように教える。また宣教場所にも固執しないで無理だと判断すれば、別の場所へ積極的に移動し宣教することを教える。そんな折、ご自身お選びになった十二使徒に宣教をさせるに当たり、その心得なるものを教えられる。その場面が今日の福音箇所である。イエスのもとに呼ばれた十二使徒たちは、それぞれ二人ずつに分けられる。それは互いに助け合う同伴者となり、一人に何か起これば、もう一人が補い、また信用に値する証人、証言が必要な場合、相互にその役割を果たすためである。これは現代においても様々な分野で生かされている。

 さて派遣するにあたって、イエスは弟子たちに汚れた霊に対する権能を授け、旅するにあたっての事細かな指示を与えている。これはイエスの弟子たちに対する思いやり、優しさ、親心といった細やかな配慮ある。と同時にイエスご自身と同じ宣教の責務を持つことに変わりはないことを教えている。イエスの弟子たちに対する仔細すぎる注意には、旅するために少し「不十分ではないか」といった危惧を感じる。そこにはイエスの考えとして、何不自由ない旅であれば、弟子たちに宣教する目的(何であるか、誰を伝えるか)を曖昧にさせるからである。不足、不十分、不満足な持ち物には、宣教の目的、何が大切であるかを、常に忘れさせない意図が含蓄される。自分ではなく、物でもない。使命は「神の存在とみ言葉を伝える」だけであること。またイエスの教えの中に派遣先でのとるべき姿勢、派遣地までの旅の途上での態度まで教えている。

 これほどまでに懇切丁寧に教える意図は、旅の途中で、あるいは旅先において弟子たちが世俗の荒波に押し流されたり、飲み込まれたり、取り込まれたりされないためである。イエスは、人間の弱点である身勝手な思い込み、勘違いから流されやすい脆弱な者であることをご存知なのである。自惚れ、傲慢、妬み、思い込みなど、それらからは人々を悔い改めに導くどころか、宣教それ自体から使徒たちを遠ざける事に繋がるからである。宣教者はイエスの代理者であり福音宣教を通してイエスご自身の姿を伝えたい。いつの時代にあっても宣教師たちは、このことに注意を払い、み言葉の奉仕者として歩むことが求められる。全国津々浦々、今日もみ言葉を必要としている人々が沢山待っておられる。是非、あなたもみ言葉を届ける宣教師に成ることが期待されている。