2021年07月24日の聖書の言葉

7月25日 年間第17主日「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」(ヨハネ6:5)

 このパンの奇跡の話は、4つの福音書に描かれています。このパンの奇跡、つまり、イエスの周りに集まった人々が皆、パンの増加によってお腹が十分満たされたという話です。この同じ奇跡が4つの福音書に記述されているということは、重要かつ貴重なイエスの証した"しるし"であると言えます。しかし、記述内容から見るとイエスのとった行動よりも、その行動に対する群衆の反応に焦点を当てているように思います。

 イエスは大勢の群衆が、ご自分の方へ来るのを見て、近くにいた弟子のフィリポを試み「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばいいのか」と聞きます。イエスの意図は、フィリポを試みる、そしてご自身フィリポの答えを受けて、神の業を行うこと。何も知らないフィリポのイエスに対する答えは、至極常識な答えであったと思います。しかし、ここにイエスの隠された意図がないでしょうか。換言すれば、現代の科学技術の発展は、目を見張るものが沢山あります。その一方で、科学技術の発展によって人々の心から神の存在という大切なものを見えなくしつつあります。「神の存在」をそうした科学技術の観点から見てしまうと、"イエスの伝えたいもの"全てが分解されバラバラになって、修復不可能になるのです。

 つまり、イエスの教えた神のみ言葉は、イエスが神のもとに挙げられた後、幾年も過ぎてから使徒たちによって書かれた「聖書」で、イエスによって書かれたみ言葉の書ではないということです。その事実から確かに、み言葉を知識として理解するが、納得できないもの特に奇跡の記述などは、信じることが難しいということになるのです。イエスは聖書に綴られた言葉を書いていないし、また存命中、弟子たちに何かを書いて手渡したという事実もありません。

 イエスのパンの奇跡の群衆への期待は、弟子も含めて神の存在、神の業をこの世に表したい、気づいて欲しい、その為に『私はこの世に来た』のだからということではないでしょうか。ところが群衆の奇跡への期待は、イエスの思いとは随分かけ離れたものでした。そこでイエスは、群衆から離れ再び山へと退かれたのです。しかもそのイエスの行動は、弟子を含め群衆が、イエスに対する誤解を乗り越えて、再び真の姿のイエスを追い求め続けられるようにという期待を含蓄した"山への退き"ではなかったかと聖書学者は伝えています。

 奇跡を引き起こす方、それは紛れもなく神の言葉です。あなたは奇跡をどのように解釈されていますか。