イエスは、五千人にパンの奇跡で満足させた後、群衆を避けて山に退かれた。弟子たちは、イエスが退かれた後、しばらく群衆の有志たちと後片付けをしていただろう。それが終わると弟子たちはガリラヤ湖の向こう岸カファルナウムへ行くために舟に乗った。とあるが、イエスと弟子たちは、その時どこへ行くかと話し合っていない。しかし、カファルナウムに向かったということは、多分カファルナウムが、イエスと弟子たちの宣教活動の拠点であったことが推測できる。そして弟子たちが舟に乗ってカファルナウムへ行く途中、イエスが湖上を歩いて来た話が続く。その後の記述が、今日の箇所になっている。海岸線の町ティベリアスからパンの奇跡があった場所・山の方へ来た群衆は、すでにイエスも弟子たちもいないことを確認すると、彼らも舟に乗ってカファルナウムにやって来た。そして、イエスを見つけるとすぐ「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言う。
このヨハネの福音の描写は、イエスと弟子たちを追っかけ回す群衆の心理を上手に表現している。それはまた片時の喜び、満足、物資的幸せを求める儚い人間の姿を群衆に見立てている。そしてイエスの言葉は、永遠の喜び、真の満足、真の幸せを求めるよう示唆する。このイエスの言葉が、はっきりと言葉のコントラストとして描いている。「神の業を行うため何をするのか」という群衆の問いに、イエスは「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」と断言する。それに対して群衆は、「だったら、あなたを信じられるように"しるし"を見せてくれ」と言い返す。この群衆のイエスへ放った言葉から、イエスを神の子として認めていないことが自明である。同時に、イエスを神の子として求めたのではなく、ただ空腹をパンで満たしてくれる人として求めるだけである。ここに私たち現代人の日常にも生じている問題が見られる。つまり、群衆の唯我独尊的姿勢、人間にとって自分の間違いを素直に是正することの難しさを見る。何故なら是正することは、これまで築いてきた自分をなし崩しにしてしまうからである。
そこで人間はプライド・自尊心・愛着心・自己満足と言った自己中心的な思い、考えが、他者への信頼、委ねることへの抵抗が生じ、素直に自分を是正することができない。したがって、そのような脆弱な人間を熟知するイエスは、唯「信じる」だけで良しとされる。にもかかわらず、それも出来ない私たち人間であることを今日の福音は語っている。あなたはイエス様のみ旨をどのように受け止めますか。