今日の福音箇所で久しぶりに故郷に帰ったイエスが、安息日に会堂に入って村人たちに話された時の様子が描かれています。会堂に集まった村人たちは、久々に出会ったイエスから何を期待していたのでしょうか。イエスが話し終えると村人たちは、異口同音に「この人は一体何者なのか」とざわめき始めます。何故ならイエスの言動が、あまりにも自分たちの常識からかけ離れ、理解するどころか大変な驚きだったからです。
つまり彼らは、イエスを限られた田舎の狭い世界で判断していたからです。イエスが同郷人で家族や親戚の人たちも自分たちと一緒に住んでいた。しかし、目の前にいるイエスの言動を観ると「驚き」だったが「疑い」に変わらざるを得なかったのです。そして、その疑いから村人たちは、イエスに「つまづく」ことになりました。勿論イエスは、故郷だから同郷人だから彼らから特別期待することはありませんでした。しかし、イエスの言葉を聞いた村人たちは、イエスを疑いました。つまり、自分たちと同じ生活をしていた者、ましてや大工の息子、そんな貧しい家族から優れた者が出るはずがない。それが会堂で先生・ラビのように話す、否、話すだけでなく奇跡や癒しまで行う、そんな者がこの村から出るわけがないと判断した。更に我々は何か魔術か虚言を聞かされて騙されていると疑ったのでした。
彼らの「疑った」原因は、どこにあったのか。この原因こそが今日の福音のポイントです。確かにイエスは、「敬われなかったのは故郷、親戚、家族の間です」と話します。何故、どうしてそうなのか?イエスは一体「誰なのか」、我々と一緒に幼い頃過ごした彼は「自分たちとどう違うのか」という彼ら自身の疑問です。その疑問を問い詰め、考えることなく、ただ自分たちの立場で、狭い知識からイエスを見て判断したことにあるのです。つまり彼らは、イエスを自分たちの先入観だけで判断した結果、疑いを抱いたのです。言い換えれば、都合の悪い事に対して無関心、無視することではないでしょうか。無関心、無視する人からは、イエスの言動の中に神の知恵、力、姿を見ることは難しいでしょう。外的要因で判断する村人、それ以上思慮深さを持たない人の眼には、イエスは神の子ではなく、ただの偉人かそれとも奇人変人としか写らないでしょう。
素直に、真摯に、イエスは誰かと、その本質を問い続けなかった。貧しい狭い知識だけで判断した結果、「つまづく」ことになった同郷人。今日のこの箇所は、私たちにも信仰の原点を見直すように示唆しているようです。
因みに、この出来事以降、イエスは会堂を訪れることがなくなっています。