2021年10月16日の聖書の言葉

10月17日 年間第29主日「人の子は、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来た。」(マルコ10:45)

 今日の主日では、第一朗読イザヤ書で「私の僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った」という。第二朗読ヘブライ人への手紙の中では「私たちと同様に試練に会うためであり、この試練を通して私たちの弱さに同情する術を手に入れました」と記述されます。そして、福音が続きます。

 ゼベダイの子ヤコブとヨハネが、自分たちの願いをイエスに頼むため、イエスのもとに来て願います。彼らを見て「何をして欲しいのか」と二人に言うと、イエスは意外な願いを聞かされます。おそらく彼らからその様な願いを聞かされるとは、思いもしなかった。イエスはそれを聞かされ正直"がっかり"したのではないでしょうか。そしてイエスは、彼らに「分かっていない」と言われ、さらに彼らに質問を投げるが、イエスの思いと彼らの思いが、全く噛み合っていないことに弟子たちは気づいていない。さらにその事を知った他の弟子たちが、ヤコブとヨハネの言動に対して、"自分たちを出し抜いた"として憤ります。イエスは、弟子たちがまだ十分にご自身の存在、弟子たちに対するご自身の思いが伝わっていないことを知らされます。そこでイエスは、弟子たちにご自分が神の僕としての存在である意義について話されます。また弟子たちに対して「偉くなりたいと思う人は、皆に仕える者になりなさい。もっと偉くなりたい者は、すべての者の僕になりなさい。そして、ご自身のこの世での使命について話されました。

 イエスの使命とは、壮絶な使命なのです。しかし、その使命を果たしたから、必ず栄光への道に入ることは、保障されていないのです。栄光の道とは、花で彩られた道ではなく、茨の道であり、十字架上での血の道だからです。そのために弟子たちに質問したイエスの言葉"私が飲む盃であり、私が受ける洗礼"だったのです。悲しいかな当時の弟子たちには、全く理解できませんでした。これが露わな人間の姿であることをイエスは、実感させられたのでしょう。それはまた現代に生きる私たちを弟子だと思っている者への注意喚起といってもいいでしょう。ご都合主義的な私たちにとって、耳の痛い今日の話ですが、逃げる、避ける、誤魔化すのではなく、しっかりと現実のありのままの自分の姿を直視したいと思います。ありのままの姿を見るとき、時に見せられる時、打算的で、利己的で、開き直って遣っ付け仕事で誤魔化していることの多さに気づかされます。今日は、そのような貧しい自分を神の前で正直に、ありのままの自分を見つめ直すことができるよう努めてみませんか。