2023年01月14日の聖書の言葉

1月15日 年間第2主日 ヨハネ1:29-34

 そのとき、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」そしてヨハネは証しした。「わたしは、〝霊〟が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『〝霊〟が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」

み言葉の分かち合い

み言葉の分かち合い

 今回初めて気付かされたことは、典礼暦A,B,C年とも年間主日の初めに必ず、ヨハネ福音書が読まれていることです。その理由は、ヨハネ福音史家が"イエスの福音宣教"を神学的に、文学的に一番意義深く記述しているからだと言われています。そのことを少し意識しながら今日の福音を祈りました。

 すぐに考えさせられたことは、非常に臨場感豊かに文章が書かれていることです。そして、旧約聖書の言葉を随所に上手く引用しながら、まさに旧約の予言の通りであることを確認させる言葉を記述すると同時に、事実、今も起こっているかのように臨場感あふれる描写をしています。聖書は"霊"によって書かれたからだと聞かされてきましたが、まさにそのことを具現化しているように思います。
 ヨハネ福音書は、異邦人やキリスト教を信じる人々向けに書かれた書ではなく、パレスチナのユダヤ人に向けて書かれた書であるとも言われています。それがヨハネ福音書が、非常に難解である一つの理由かもしれません。もちろん、真偽を疑うつもりはありませんが、自分の中で"なぜ? どうして?"という不思議がいつも湧き出てきます。しかし、時間をかけて読み進めていくとき、何か微かな光のようなものを感じさせられ"なるほど"と納得させられると同時に、神の偉大さに平伏させられるのです。

 今日の福音で洗礼者ヨハネは"自分の方へイエスが来られるのを見て"とあります。その時言った彼の言葉は、誰に向けて語ったのか。すでに彼には幾人かの弟子がいたのか、それとも彼の水の洗礼を受けに来ていた人々に対して話したのか、あるいは自分自身であったのか、定かではありません。しかし、次の35節を読むと「その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた」とあります。つまり、弟子の二人にイエスについて話されたことが解ります。同時に、当時の光景からヨハネに洗礼を受けに来た人にも話していたことが伺えます。
 「わたしはこの方を知らなかった」。"えぇ〜、知らない?"読み手である私たちは、エリザベトとザカリアの子であること、生まれる前、マリアがエリザベトを訪問したことから、洗礼者ヨハネはイエスを知っていると思っていませんか。当時洗礼者ヨハネは、エリザベトの胎の中、見えていたとすれば、それは霊によるものでしょう。洗礼者ヨハネの言うように彼は"知らなかった"のです。しかし"この方がイスラエルに現れるために、わたしは・・・"と言うように、彼は自分自身の使命を知っています。これこそ霊によって知らされた使命の言葉です。その同じ霊が続けて話されます。それは霊に対する違和感を取り除き、霊は神から発出されるもの、その霊はイエスを神の子と証しすると言います。

 あなたはこの記述から神の存在、またその神から発出される霊を信じていますか。

参考:(第一朗読:イザヤ49・3、5-6)・(第二朗読:一コリント1・1-3)