そのとき、イエスは祭司長や民の長老たちに言われた。「あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」
「二人の息子」のたとえ
マタイ福音書21章から、イエスのエルサレム神殿での活動が始まります。本日のたとえ話は、マタイ福音書だけが伝えているものです。イエスはエルサレムの神殿から商人を追い出しました。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか」と詰め寄る祭司長や民の長老たちに向けて、この「二人の息子のたとえ」を話されたのです。
ぶどう園は時機に適った手入れが欠かせないそうです。今日はどうしてもぶどう園での労働が必要だったのでしょう。父親は二人の息子にぶどう園へ行って働くよう依頼したのです。
たとえ話の配役は次の通りです。
・「父親」=「神様」
・「ぶどう園で働く人」=「イスラエルの民」
・「兄」=「徴税人や娼婦たち」
・「弟」=「祭司長や民の長老たち」
先週(年間第25主日)の福音「ぶどう園の労働者」のたとえ話(マタイ20・1-16)を思い返してください。あと1時間で日が暮れるという時刻になって、ようやく働くことができた労働者に対して「最後の者にも、同じように支払ってやりたいのだ」と語る主人の慈悲深い眼差しが目に浮かびます。父親は二人の息子にぶどう園での労働を強いることが目的なのではありません。父親と共に生きる喜びを味わおうと招いているのです。
「承知しました」と答えて出かけなかった弟にも、後で考え直すチャンスはあったはずです。父親はそれを望んでいたことでしょう。しかし自分は正しく、回心の必要がないと確信していた弟には、残念ながら父親の招きの声が届くことはありませんでした。
自分は悔い改める必要がないと言える人はひとりもいないのです。「悔い改め」「考え直し」「心を変える」ことは、兄にも弟にも、そして徴税人や娼婦にも、また祭司長、民の長老たちにも、同じように求められていることなのです。そしてこのことは、現代を生きる私たちにも同じように求められているのです。
ぶどう園に行って働くとは、父なる神の許に立ち返って、神の御心に従って生きるということです。その実現は、まず「考え直す」こと、「悔い改める」ことから始まるのです。
では「考え直す」とはどういうことをすればよいのでしょうか。
~~考え直すことは簡単なことのように思えますが、きわめて難しいことです。自分の習慣やくせを直すことは容易なことではなく、一度決めたことや身についてしまったことをやり直すのには、とても勇気がいります。 しかし、これまでの自分を縛りつけていたメンツやこだわりを捨てて解放される時、わたしたちの前に新しい世界が開けてくるのです。固執していたものから自由になる時、わたしたちは解放され、新しくなるのです。~~ 『イエスの譬話』船本弘毅、河出書房新社
*キーワード:後で考え直す
原文のギリシア語「メタメロマイ」は、2つの意味を持つ言葉です。
①悔やむ・後悔する、②考え(関心)を変える
父親(=神)の呼びかけを深く受け止めて、自分を変えることができるかどうかが問われているのです。洗者ヨハネが説いた回心の道は、何よりもまず、自分の罪の深さを認めて神に立ち返ることでした。自分たちは正しい行いをしているという自己満足の世界にいる祭司長たちの心には、ヨハネの回心の勧めが響くことはありませんでした。
ところが、神の望みを果たすことができないでいることを自覚し、痛みを感じていた徴税人や娼婦たちにとって、ヨハネのメッセージは希望を与え、心を動かされることになったのです。
参考:(第一朗読:エゼキエル18・25-28)・(第二朗読:フィリピ2・1-11)