そのとき、イエスと弟子たちはガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。
一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」
「人の上に立ちたい、人から認められたい」という願望を人間は潜在的に持っていることを福音書は伝えています。イエスと生活を共にして、身近にイエスの教えを聞いてきた弟子たちでしたが、誰が一番偉いのか議論し合っていたと福音書に記されています。
イエスから「途中で何を議論していたのか?」と尋ねられた弟子たちは、何も言えずに黙っているしかありませんでした。さすがに「まずい。やばい」と思ったのでしょう。そのような弟子たちに対して、イエスは「一番先になりたい者は、すべての人に仕える者になりなさい」と、弟子たちの思いとは真逆のことを教えてくださいました。
「子供を受け入れる」とは謙遜になりなさいということです。子どもは汚れがなく可愛い存在であるという現代の考え方とは異なり、当時のユダヤ社会では、子供は律法を学ぶことができていない不完全な弱い存在でしかありませんでした。
祈りましょう。
小さくされた人々である、国を追われ難民生活を余儀なくされた人々に対して、気候変動や紛争によって食料や飲み水が不足し苦しむ人々に対して、病気や高齢のために人との交わりが断たれた孤独な人々に対して、仕える者となることができますように。何を成せばよいかをお示しください。そして一歩ずつ成すべきことを成す勇気をお与えください。 アーメン。
参考:(第一朗読:知恵2・12、17-20)・(第二朗読:ヤコブ3・16-4・3)