院長は聖なる生活をもって、他のシスター方のすばらしい手本となる人であったというから、臨終の時、マリアさまがお迎えに来られたのであろうことが想像される。
マリアさまは私も幼少の頃から親しんできたが、「私のマリアさま」ではなく、「わたしたちのマリアさま」と思ってきた。
わたしのお母さんは実母、うんだき親と呼ばれる名付け親は魂のお母さん、教え方さまは信仰のお母さんと思っている。
マリアさまは全人類のお母さんであり、わたしのお母さんなどとはとても呼べない。
マリアさまはイエズスさまをお産みになり、ヨゼフさまと共にいつくしんで育てられた。
なのに、人々の罪のつぐないのために十字架にかけられた我が子をまのあたりにしなければならない血のにじむような苦悩を味合われた。単なる我が息子、我が母の、地上の人間関係であったらこのような苦悩に耐えられなかったであろう。
十字架上のイエズスさまを見送ったこの瞬間から、マリアさまは天のお母さま、私たちのお母さまになられたと思う。
私も今年70歳になる。自分の臨終の時のことも考える。その時、イタリアの院長のように、「わたしのお母さん」と魂の根源に一致する呼び方が出来たらなと願っている。