「よのなかのひとがみいんな
ひとつの家にすまえたらいいのに
あたえるという きもちもなく
うくるという きもちもなく
ただかんしゃし ただいつくしみ
そして あらゆるものは
そうごんなしずけさにもえるのだ」
クリスチャン詩人八木重吉のこの詩に出会ったのは、奥村一郎神父の著書『断層』を読んでいる時でした。今でもよく憶えています。読みながらメロディが浮かび、生れ出た歌を繰り返し口ずさみました。
この詩の響きに包まれると、味わったことのないような静けさと透明さを感じます。
ふとわが身を振り返ると、愛徳や親切のつもりでも、それが善意の押し付けになっていたり、人から受けたご厚意に恐縮しすぎたり、何か力んだ心の状態の時があるような気がします。
わたしたちが「与える」とか「受ける」ということを"目標"にすると、心の奥深くに自分のプランや自己満足が混じってしまうことがあるのではないでしょうか。
ただ相手の善のため、霊的な善のために純粋な愛が流れ出ているとき、「与える」とか「受ける」という意識を超えた心のまどいが静かにあたたかく広がるようなイメージが浮かびます。
クリスマスの聖夜。星が静かに瞬く以外、光のない闇。静けさに包まれた貧しいベトレヘムの片隅。
「救いに来たよ!」「我に来たれ!」と大きな声を響かせることなく、神の御子はわたしたちの弱さや涙を分かち合うかのように、最も小さな赤子の姿でそっと罪びとの世界へ来てくださいました。
この不思議な"ともしび"の前にひざまずくと、「そうごんなしずけさ」に心が燃えてくるような思いになります。
クリスマスの馬ぶねから放たれる光、ぬくもり、静かな愛が、それを受けとったわたしたちを通して全世界に響いていきますように。