クリスマスが近づくと、ある神父から聞いた子ども時代の話を思い出す。
ある年のクリスマス、まだ子どもだったその神父は、何か月も我慢してためたお小遣いを握りしめて、デパートに向かった。前からずっと欲しかったおもちゃを買うためだ。ところが、デパートの前で足が止まった。ちょうどそのとき、デパートの前で、貧しい国の子どものための募金活動をしていたのだ。やせ細った子どもたちの写真を見ているうちに、彼の心に「この子たちを見捨てて、ぼくだけおもちゃを買ってよいのだろうか」という思いが湧き上がった。「せっかくこの日のために貯めたお金なのに」という思いもあったが、彼は思い切って、そのお金を募金箱に入れて帰ってきたという。おもちゃは買えなかったが、彼の心はそのとき大きな喜びで満たされた。
何十年も経ったいまでも、その喜びは消えていないようだ。彼の話しぶりを聞いていると、確かにそう感じる。
別の神父は、戦後の食糧難で地方都市に買い出しに行った帰り道、ぎゅうぎゅう詰めの列車の中で、たまたま見つけた空席を女性に譲ったときの話をうれしそうに何度も聞かせてくれる。まだ目的地まで何時間というときに席を譲るのは勇気がいったが、疲れ切ったその女性の顔を見て譲らずにいられなかった。譲ったとき、心の中が大きな喜びで満たされたというのだ。その喜びもまた、何十年たっても消えていないようだった。
彼らはその日、自分を忘れて、誰かのために自分を差し出す喜びを深く味わった。その喜びは彼らの心に深く刻まれ、一生消えない喜びという宝物に変わった。
今年のクリスマスは、わたしも彼らを見倣って、自分を差し出す贈り物に挑戦してみたい。