エルサレムで一人旅をした時のことだった。
事前に宿として予約していた修道院は、異なる人種、宗教、言葉が集まる混沌とした地域の中にあった。当時のネット環境は悪く、紙の地図が唯一の道しるべだったが、いざエルサレムに着いてみると、地図も当てにならず、私は道に迷って途方に暮れた。 その時、一人のアラビア人が近寄ってきた。汚れた衣に陽に焼けた肌。黒ずんだ顔に両目だけが異常に輝いているように見えた。 そんな風貌に、私は思わず一歩後ずさってしまったが、彼は全く気にせず、私の地図を覗き込んで、嬉しそうな身振りで自分もそこに行くことを伝えてくれた。半信半疑でついていくと、本当に修道院にたどり着いた。 入り口の扉が開くのを待っている間、彼は悠々と手に持ったパンを食べ始め、私にも気前よく勧めてくれた。私はびっくりして断ったが彼は全く引かないので、仕方なくその食べかけから少しちぎり、礼を言った。後で分かったことだが、彼は修道院の庭工事の労働者で、昼の食事を買いに出かけていたのだった。 日々唱えている「主の祈り」の「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください」という句を思い出した。 わたしの糧ではなく、わたしたちの糧を、神に願い求める祈りである。それを実現するためには、人間が互いに糧を分かち合うべきだろう。 恥ずかしいことに、私は外見で人を疑ってしまったが、彼は見ず知らずの私に貴重な日ごとの糧を分けてくれた。「主の祈り」を口で唱えてきた私に、信仰の異なる彼は、なにげない行動によってその祈りの本質を教えてくれたのだった。 彼からもらったその一かけらのパンを口に入れた。 パサパサしていてとても美味しいとは言えなかったが、噛んでいるうちに涙が溢れ出てきた。