▲をクリックすると音声で聞こえます。

繋がり

今井 美沙子

今日の心の糧イメージ

私の父母は人とのつながりを縁という言葉で表していた。

どこの誰かわからない初対面の人であっても「うちん玄関に入って来た以上は縁があるとたい」といって、刑務所帰りの人であっても10年来の知己のようにもてなした。

我家には聖書はなかったが、当時の福江教会の松下神父さまが、学問のない人にもわかりやすく聖書を噛み砕いて教えてくれたのでそれをそのまま実行していたのだった。

知識ではなく、知恵の面で体得していたのである。

そんな我家であったから、我家を中心にして、五島の津々浦々から人が集まり、その人々は広くつながっていった。

我家で情報交換が行われ、どこそこの子どもが中学生になるから、学生服やセーラー服が必要となると、我家へつどった人たちが八方手を尽くしてそれらを手に入れ、我家の座敷で手渡してあげていた。

子どもが生まれたとなると、古い浴衣など木綿の布を持ち寄ってくれたし、年老いて身体が不自由になり、オムツが必要になると、また古い木綿の布を持ち寄ってくれた。

沖縄の諺に「奪い合えば足りないが、分け合えば余る」がある。

五島でも沖縄の諺がそのまま生きていたのだ。

縁にもいろいろある。思いついた縁を列記してみると、もちろん私の造語もいくつかあるが・・・。血縁、地縁、職縁、家縁、学縁・・・。しかし、今や血縁も地縁も薄れてきてしまった。さて、何が残るだろうかと、この数日、考えてみた。

思いついた。神縁である。

実は五島の我家もカトリックを縁とした人々の集まりであった。

神縁は永遠の縁である。