紀元1945年8月9日、長崎カトリックのシンボルであった壮麗なる浦上大天主堂はアメリカ軍が投下した原子爆弾によって完膚なきまで破壊し尽くされました。
この事件は4回にわたって行われた「崩れ」と呼ばれるキリシタン検挙事件、すなわち4番崩れに続く5番崩れとも言われています。
重ねられたこの壮大な「崩れ」も、人間の本来の崩れと建設を象徴するものとして受け止める方々がいることも確かです。
つまり人間とこの世界の究極の崩れであるイエス・キリストの死とその建設である復活に重ね合わせて、これを受け止めようというのです。
人間は創られたそのまま、ありのままで神を宿す神殿です。ところが人生航路を辿る間に、ままはままでも「わがまま」という名の人工添加物がくっついてしまいます。
この人工添加物を崩し、つまり自分の小さな死を積み重ね、新たな自分づくり、すなわち新たな復活を目指すことが出来れば、これこそ「悔い改め」つまり回心そのものということになりましょう。
当事者にとってはまことに不本意であったこの2つの大崩れ事件を、人間の内なる崩れと建設を促すものとして厳しくも捉えるという。もはやキリスト道の極みです。
食生活はさておき、私は日々、「悔い改め」ているだろうかと、このエピソードを思い出した時、考え込んでしまいました。もしかすると、神さまがいつくしみ深く、どこまでもゆるされることに、ついついあぐらをかいていないだろうか、と反省させられました。
自分自身の考え方や習慣、行動パターンを変えていくことは、なかなか難しいことです。しかしながら、これらにゆがみがあることを認め、日々、新しい自分に変わっていくことは、信仰生活の一つのあり方だと思います。
まずは、自分自身のあり方をじっくりと見つめなおし、そこにゆがみや傷を発見すること。そして、これらとしっかり向き合うことが大切なのでしょう。
そして、自分中心に凝り固まったあり方から、周りの人たちや神さまに目を向けていく時、悔い改めは実りをもたらすのでしょう。
つまり、「悔い改め」は自分自身だけで完結するものではなく、周りの人々や神さまに自らの存在を分かち合っていくことにつながっていくのだと思います。
結果的に、周りの人に自分をさし出す「ゆとり」と「しなやかさを「悔い改め」はもたらし、本来の自分自身を取り戻すのです。