わたしの まちがひだつた
わたしのまちがひだつた
こうして 草にすわれば それがわかる
一人で、声に出して読んでみると、心が落ち着いてきたものです。
なぜでしょうか。日常生活の雑事から離れ、地に生えた草の上に腰をおろすと、自然に抱かれ、その中のひとつの命である自分を静かにみつめることができます。この短い詩は、そんな穏やかな場所と時間へ私を連れていってくれるような気がしたのです。
当時の私にとって、「草にすわる」とは、「聖堂で祈る」ことでした。長崎での23年間の教職生活中、子どもたちが下校した後、学校の聖堂で必ず祈ったものです。
祈りのなかで、自分を振り返ると様々なことに気がつきます。
たとえば、子どもたちに対して厳しく叱りすぎたのは、自分の感情を押さえ、理解を示す配慮が欠けていたから。
たとえば、授業がうまくいかなかったのは、日頃の勉強や前日の準備を怠っていたから。
たとえば、職員会議のときに自分の意見に固執したのは、自分こそが正しいと思い上がっていたから。
祈れば、自分の非を素直に認めることができました。
悔い改めて、またがんばりたいという気持ちになれたのです。