聖書をパタン、と閉じて私が感じることは、すでに体を持たないイエスという存在の"いつまでも消えない愛"があるーーという直観です。
<イエスの存在は愛そのものかもしれない>という予感を辿っていくと、その核心に触れるのはルカによる福音書22章でペトロがイエスを裏切る、次の場面です。
『主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。』
この場面を読むたび、瞳を閉じるとイエスの深く澄んだまなざしは時空を越えて、日々、つまずいては何とか立ち上がろうとする弱さを抱えた私自身をも、じっと見つめてくださっているような気がします。その少し潤み、微かに震える瞳は、誰もが転んでは立ち上がろうとする時にこそ、遥かに遠い場所から何かを囁いています。
「もし、あなたの哀しみを誰も理解しなくても、私はあなたの哀しみを知っている。そして、もし私と共に歩むならば、やがて雲間からあの太陽が顔を出すであろう」と。