食生活はさておき、私は日々、「悔い改め」ているだろうかと、このエピソードを思い出した時、考え込んでしまいました。もしかすると、神さまがいつくしみ深く、どこまでもゆるされることに、ついついあぐらをかいていないだろうか、と反省させられました。
自分自身の考え方や習慣、行動パターンを変えていくことは、なかなか難しいことです。しかしながら、これらにゆがみがあることを認め、日々、新しい自分に変わっていくことは、信仰生活の一つのあり方だと思います。
まずは、自分自身のあり方をじっくりと見つめなおし、そこにゆがみや傷を発見すること。そして、これらとしっかり向き合うことが大切なのでしょう。
そして、自分中心に凝り固まったあり方から、周りの人たちや神さまに目を向けていく時、悔い改めは実りをもたらすのでしょう。
つまり、「悔い改め」は自分自身だけで完結するものではなく、周りの人々や神さまに自らの存在を分かち合っていくことにつながっていくのだと思います。
結果的に、周りの人に自分をさし出す「ゆとり」と「しなやかさを「悔い改め」はもたらし、本来の自分自身を取り戻すのです。